◎「相澤中佐の片影」の伏字について
「相沢三郎は何より情の人、行動の人であった。こうした相沢の人となりを綴った文集が二冊刊行されている」 「相澤中佐の片影」と「相沢中佐の遺影」が、鬼頭春樹著「実録相沢事件」に紹介されている。 鬼頭氏は「この二冊からは、部下思いで無骨な職業軍人、相沢三郎の人物像が浮かび上がる」として、遠藤美樹氏(戦死者の弟)が記した“片影”の一部を引用している。...
View Article◎相澤中佐が遺したこと
鬼頭春樹著「実録相沢事件」には、菅原裕氏の名前が度々登場している。 画像参照。菅原裕著「相沢中佐事件の真相」は、その刊行当時に“末松太平”に献本されていた。 そして「実録相沢事件」は、刊行と同時に“末松太平の長男”が献本していただいた。 「相沢中佐事件の真相」と「実録相沢事件」との間に流れていった歳月を思うと、感無量なものがある。...
View Article◎相澤中佐の遺墨について
「相澤中佐の遺墨が、ネットで取引されていた」 思わずムムムと唸ってしまう情報を「江翠様」に教えていただいた。感謝感謝である。 (註●詳しいことは「推奨・実録真相相沢事件」に寄せられたコメントをお読みいただきたい。)...
View Article◎仮題 「野田雅子を歩く」
(未完成=完成後は別のタイトルになります) 意味不明のタイトルとお思いでしょうが、それなりの「起承転結」で完結する筈です。 気長にお待ち下さい。 現在73歳。ひと雨ごとに「保管史料を処分する日」が近づいてくる。最近流行りの「断捨離」という言葉に左右されてはいないが、 蔵書の類8を増やしたくないから、図書館で読むように心がけている。 画像参照。 (続きます)
View Article◎明日は東京都議会議員選挙です
板橋区議の山田クンに頼まれて、安倍首相の街頭演説を撮りにいった。単なる地元の付き合いである。山田区議は同じマンションの住民なのだ。 山田区議の役割は、司会進行役。安倍サンのすぐ近くに居るのだが、二人の間に「立候補者」が写っているので(投票日前には)掲載できない。 「報道関係の方ですか?」「いえ、違います」「では、この場所を退去してください」...
View Article◎「末松太平」保管史料・整理開始
久しぶりに墓参に行く。実は、今年になって初めての墓参である。 千葉市若葉区の平和公園(市営墓地)は、特養老人施設「清和園=母が世話になっていた」に隣接している。だから、毎週一度の「老母視察」のついでに、時折は「末松太平の墓」を訪ねていたものである。...
View Article◎史料整理シリーズ?=1968年の日記
前回(1966年の日記)に続き、1968年の日記の一部を初公開する。末松太平は当時60才〜61才。私は25才〜26才で4月に(労働組合結成で会社に睨まれ)福岡支社に飛ばされた年である。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ●1968年2月26日(月) 『2・26...
View Article◎史料整理シリーズ?=続・1968年の日記
承前。当然のことだが「2月26日」の次は「7月12日」に注目する。期待に反して(4月12日〜7月14日の期間は)何も記されていない。賢崇寺法要に参列したことは、次の記述(慰労会参加)から推察できるのだが。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ●1968年7月18日(木)...
View Article◎史料整理シリーズ?=読めなかった(と思われる)手紙
東京は、4日連続の猛暑日である。こういう日は、古い日記帳を手繰るよりも、爽やかな彩りの封筒を開く方が楽しい。 画像参照。1992年9月28日付の消印のある封書は「20歳を幾つか過ぎた女性」から、末松太平(当時86歳)宛に届いたものである。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 『拝啓...
View Article◎「理想日本」という雑誌 (その1)
「年表・末松太平」は、末松太平の死去直後に「私家版」として急遽仕上げた記録である。記録として不完全であるが個人的な史料としては、それなりに役立っていた。しかし、田村重見編「大岸頼好・末松太平・交友と遺文」に全文が掲載され、中公文庫版「私の昭和史」の解説にも“年表の存在”が記されてしまうと、私家版であっても“史料としての責任のようなもの”が生じてしまう。...
View Article◎「理想日本」という雑誌 (その2)
話の流れとして「年表・末松太平」1940年(昭和15年)の部分を再掲しておく。 ●4月17日・長男建比古誕生(東京都杉並区天沼)。 ●「富士飛行機・青年学校=同年4月開校」に関与する。...
View Article◎「理想日本」という雑誌 (その3)
雑誌「理想日本」昭和17年9月号。 巻頭言「満州事変十一周年」の冒頭部分を、少しだけ紹介しておく。 原本の破損崩壊を少しでも遅らせるために、転載作業は慎むしかない。ほんの一部分の紹介だが、ご容赦いただきたい。 『昭和六年夏、張学良隷下の一兵営下士官室の小黒板に、 今日ハ火曜日ダ 八月十五日ニナッタラ 小日本鬼 射撃 と落書してあった。...
View Article◎「理想日本」という雑誌 (その4)
雑誌「理想日本」昭和18年1月号。 先例と同様に、ほんの一部分だけの紹介である。一部分だけでは、文意が正しく伝わらない(逆の意味にとられる危険もある)とは思うが、原本保護を優先するしかない。 「年頭感あり」 年頭にあたりて先ず、とことはに目出度き大御代の、弥栄をことほぎまつる。 『必勝の信念については、現行兵書に...
View Article◎「理想日本」という雑誌 (その5)
雑誌「理想日本」昭和18年2月号。 巻頭言「創刊一周年」 『すでに言葉の時期でなく、実行の時期であるとは、今日屢ゝきく言葉である。言行一致とのみならず、不言実行とまでいはれ、いふに易い言葉より、行ふに難い実行が、尊重されることは、今にはじめぬことながら、それが特に今日強調される所以は、口先だけでは、いくさはもとより、一塊の石炭も掘れず、一握の木炭も焼けないからである。...
View Article◎「理想日本」という雑誌 (その6)
雑誌「理想日本」昭和18年4月号。 巻頭言のタイトルは「存在と意識」で『人間の意識がその存在を決定するのではなくして、逆に人間の社会的存在がその意識を決定するのである。』という書き出しで始まっている。以下省略。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 実は、もう暫く雑誌「理想日本」の紹介を続けていく予定であったが、気分が変って一旦休止。別の話題に移ることにする。...
View Article◎史料整理=入獄から出獄までの日々 (1)
画像は「大阪朝日新聞」昭和12年1月19日の“第二号外”である。ヘッドラインにある「七将校」は、満井中佐、菅波大尉、大蔵大尉、末松大尉、志村中尉、志岐中尉、齋藤予備役少将で、東京陸軍軍法会議の判決=1月18日、陸軍省発表=1月19日午後1時58分と記されている。...
View Article◎お詫び&現況報告・・・ などなど
更新が滞っております。 申し訳ありません。 それなりの理由があるのですが それはさておき・・・・ この状況でも 閲覧者数が連日3桁を持続しています。 申し訳ない限りです。 実は 2月26日の翌朝から パソコントラブルが続いています。 そういうことで 更新再開はもう少し遅れます。 渡邊真知子サンの「カモメが飛んだ日」を聞きながら もう暫くお待ちください。 画像=正月に撮影した「二・二六慰霊像」。...
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