
画像は「大阪朝日新聞」昭和12年1月19日の“第二号外”である。ヘッドラインにある「七将校」は、満井中佐、菅波大尉、大蔵大尉、末松大尉、志村中尉、志岐中尉、齋藤予備役少将で、東京陸軍軍法会議の判決=1月18日、陸軍省発表=1月19日午後1時58分と記されている。
末松太平が(志村氏、杉野氏と共に)弘前陸軍拘置所に収監されたのは昭和11年3月7日で、3月末には東京に移送されている。起訴(第3次)=8月20日。公判開始=10月10日。求刑=10月19日。既に(7月12日に)15人の死刑が執行されている。
「年表・末松太平=1993年2月24日初版完成」には“入獄から出獄までの経過”が詳しくは記されていない。そもそも、この「年表」は、末松太平の葬儀(1993年1月17日)翌日から、賢崇寺の法要に“初参列”するために“突貫工事”で「それまで全く無関心だった父親の人生」を把握するために作成した“不完全版”であった。
今回の遺品整理は“廃棄処分”が最終目的ではあるが、保管者(私の妹)から「全てに目を通した上で処分して欲しい」という指令を受けている。全てに目を通せば“知らなかった史料”に出会うことになる。例えば「二・二六事件直後の“東奥日報”ファイル」、例えば「末松太平が獄中で記していたノート」、例えば「仮出獄関連の公式文書」などなど。
出逢った以上は、そのまま廃棄してしまうわけにもいかない。不完全版の「年表・末松太平」を補強するためにも、とりあえずは「末松太平事務所」に記録しておくことにする。
この「大阪朝日新聞・第二号外」には「発行所 大阪朝日新聞九州支社=門司市東本町三丁目」と記されている。福岡県門司市(北九州市門司区)は、末松太平の故郷である。この新聞を大切に保存していたのは、末松太平の実家(父か弟)だと思う。私にとって、この新聞は“史料”ではなく“家族の絆を想起させるモノ”としての価値が大きい。

毎度お馴染の“燃えるゴミ”の紹介である。
末松太平の遺品から「7枚の地図」を発見した。何かの書籍に附せられていた資料だと思う。7枚の地図を大切に保管していた理由は判らない。何かの原稿を書くために保存していたのだろう。紙質が良く劣化もしていない。しかし、現在の私には全く必要がないものである。廃棄することに迷いはない。
「年表・末松太平」の空白部分を埋めるものとして、記録だけ残しておく。
・附図第1・1914年9月中旬の中欧諸国の状況。
・附図第2・1914年9月中旬の西方戦場での状況。
・附図第3・1914年10月中旬の西方戦場での状況。
・附図第4・ロシア戦線の両翼に対する攻撃。1915年1月〜2月。
・附図第5・東方戦場における1915の夏季戦役。
・附図第6・セルビアにおける作戦(1915年秋季)。
・附図第7・1916年夏季のブルシロフ攻勢。
地図には(例えば附図第2の場合)ドイツ軍部隊、フランス軍部隊、イギリス軍部隊の戦闘経過が載っているから「戦記愛好家」には面白い資料だと思う。ついでに附図第7を紹介すれば、ドイツ軍の戦線、オーストリア・ハンガリイ軍の戦線が図示されている。(末松)