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Channel: ◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 
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◎「理想日本」という雑誌 (その2)

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話の流れとして「年表・末松太平」1940年(昭和15年)の部分を再掲しておく。
●4月17日・長男建比古誕生(東京都杉並区天沼)。
●「富士飛行機・青年学校=同年4月開校」に関与する。
末松太平が仮釈放されたのは、1939年4月のことで、創立間もない「富士飛行機」という会社(東京・鎌田)に青年学校を作ることを頼まれている。多分、若者集めのために「青森での顔」を期待されたのだと思われる。無事に開校してしばらくの間、末松太平は“青森から来た1期生”を指導していたが、やがて菅波三郎氏が仮釈放されたので校長に推薦し、自分は満州に渡っている。菅波三郎大尉(歩兵第四十五連隊)と末松太平大尉(歩兵第五連隊)の“同志”を実感させる、私の好きなエピソードである。
そして、1941年「日米開戦」を経て、1942年に菅波・末松の“同志”は「理想日本」を創刊することになる。



『謹みて 詔書奉戴一周年を記念し奉る。』
雑誌「理想日本」第2号に掲げられた“巻頭言”である。
堂々5ページにわたる力作で(当時の世相を理解するためにも)全文を転載したいのだが、画像だけでご容赦いただきたい。
画像から推察できるように、紙質の劣化が著しい。ページを開いているだけで、ボロボロと破れてくるのである。

『東條首相は、さきごろの生産増強官民懇談会の劈頭の挨拶において「国民の一部の中には、大東亜戦争は緒戦の戦果により一段落を告げ、今後は輝かしき建設戦が残るだけであるといふ、全く安易な楽観的気分となって、緊張を欠くものなきにしもあらずと認められるのであるが、これは思はざるも甚だしきものである」と述べている。開戦後やっと一年を経て、正にその記念日を迎へんとしているときであるのに、話がかういうことにまで及ばなければならなくなってゐるのが、目下の実情といふべきであろうか。』以下省略。

そういうわけで、本文の転載は断念するしかないが、タイトルだけでも紹介していきたいと思う。(末松)

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