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Channel: ◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 
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◎史料整理シリーズ?=1968年の日記

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前回(1966年の日記)に続き、1968年の日記の一部を初公開する。末松太平は当時60才〜61才。私は25才〜26才で4月に(労働組合結成で会社に睨まれ)福岡支社に飛ばされた年である。
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●1968年2月26日(月)
『2・26 33回忌法要。式次第に「日本青年の歌」を歌うことになっていた。三上卓は自作の歌を歌われることを好まなかった。仏心会のやることは仏心会のペースで行けと、説得した。三上は、歌うより行え、ということである。三上は、そのあとで、ふところから俳句19首を我に渡す。公開は好まぬ。仏心会にやってくれという』
●1968年2月27日(火)
『竹内俊吉が俳句をつくれと「春燈」を送ってきた。』
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三上卓氏が「自作の歌を歌われることを好まなかった」と初めて知った。
「二・二六事件 三十三回忌 十九句 三上卓」
三上氏に渡された“俳句19首”は、日記に転載されている。三上氏の「十九句」を「十九首」と記したのは、末松太平の単純ミスだろう。全十九首を皆様に御披露したいところだが、三上氏ご自身が「公開は好まぬ」と伝えている以上、記すわけにはいかない。
竹内俊吉氏の名前は、末松太平著「私の昭和史」に度々登場する。奥羽日報の記者だった竹内氏は、この時点では青森県知事になっていると思う。



画像参照。紹介するタイミングを逸していたのだが、2012年5月に“江面弘也著『「青年日本の歌」をうたう者・五・一五事件、三上卓海軍中尉の生涯』中央公論新社刊”という力作が書店に登場していた。惹句には「縁者にあたる著者が8年に及ぶ取材を経て、書きおろす」と記されている。
当然ながら、私は取材対象ではない。それでも「末松太平」は登場していた。三上卓氏の晩年を描いた部分で「末松太平に送った最後の年賀状」の文面が紹介されている。著者が“年賀状の実物”を手にしたわけではない。参考文献からの引用である。ネタ元=雑誌「新勢力・三上卓追悼号」1972年2月15日発行。末松太平は「水より淡く」という追悼文を載せている。(末松)

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