
久しぶりに墓参に行く。実は、今年になって初めての墓参である。
千葉市若葉区の平和公園(市営墓地)は、特養老人施設「清和園=母が世話になっていた」に隣接している。だから、毎週一度の「老母視察」のついでに、時折は「末松太平の墓」を訪ねていたものである。
9月になれば、末松敏子の三回忌。末松太平の場合と同様に「三回忌まで」はマジメに執り行う所存である。末松家に菩提寺はない。葬儀で御縁のできた「弘教寺=千葉県市原市」に予約の電話を入れた。周りの都合を確認せずに、法要の日取りを決めてしまうのが“私流”である。坊守様(御住職の奥様)に「参列者は何人ぐらいですか」と訊かれて「4人から10人程度です」と答えた。愚息夫妻は海外勤務中で、当初から員数外である。

「末松太平の家」に行く。妹に逢うのも今年になって初めてである。今年3月に「邦刀遺文=對馬中尉の遺文集」に必要があって訪れた時には、妹が留守だったのである。余談だが、妹は地元の民生委員(正式名称は児童なんとかの語句もつく)を受諾していて、あれこれと忙しいのだ。
「末松太平の家」は 近々に土地売却のため、取り壊される宿命にある。手付かずの状態で大量に保管されている「末松太平関連の史料」も、処分するしかない。
誤認を避けるために、「年表・末松太平」の「昭和19年頃」の部分を再掲しておく。
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1944年●昭和19年頃(18年かもしれない)。末松太平・38才〜39才。私・3才〜4才。
(東京都杉並区から)千葉市登戸5丁目に転居。転居先は、義父・久保三郎の持ち家である。
末松太平は結局、亡くなるまで約50年間、この家に住み続けることになる。
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やがて、久保三郎(私の祖父)が逝去し、久保なつ(私の祖母)も逝去した。遺産の一部(土地家屋2件)は「子供4人の名義」で相続された。時が流れ、子供4人は(末松敏子を最後に)全員が逝去。相続人=久保夫妻の孫(8人)という状況になった。以下省略。今回の「土地売却&取壊し」の理由は、そういうことである。
妹の協力を得て、保管史料の整理に着手した。史料でない品々は、その場で廃棄処分にしていったが、なにしろ対象物が多すぎる。膨大な量の書籍類は(オソロシイので)今回は無視。とりあえず「ダンボール4個分」の史料を、東京都板橋区の我家に運んだ。
最終的には「ダンボール数十個分」の書籍史料類を、我家に移すことになるだろう。大胆に選別して廃棄処分しない限り「ダンボール百個分」を超える可能性もある。私の部屋に収まる筈がない。既に我家には、私&家人所有の書籍資料類が「1間幅×7段の書棚」10基分に、ギッシリと詰まっているのだ。
画像参照。本日運んだのは「日記類」と「手紙類」がメインである。残存史料全体からみれば“ほんの一部”に過ぎないが、これだけの中にも「初公開の情報」が多々含まれていそうな気がする。
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●1966年7月12日。
『2・26法要。午後6時 三島由紀夫氏を訪ねる。「新潮」編集長寺田博、婦人公論編集長笹原金次郎、編集部次長菅原国隆、村松剛、大映プロデューサー藤井浩明、「文藝」伊沢甲子麿の諸氏同席。』
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これは、一例だが、末松太平の古い日記帳によって、末松建比古編「年表・末松太平」に欠落している「情報」が判明するのが嬉しい。(末松)