
雑誌「理想日本」昭和18年2月号。
巻頭言「創刊一周年」
『すでに言葉の時期でなく、実行の時期であるとは、今日屢ゝきく言葉である。言行一致とのみならず、不言実行とまでいはれ、いふに易い言葉より、行ふに難い実行が、尊重されることは、今にはじめぬことながら、それが特に今日強調される所以は、口先だけでは、いくさはもとより、一塊の石炭も掘れず、一握の木炭も焼けないからである。
とはいへ、他方ではまた言葉の重要性が強調されてもゐる。一方で言葉の時期でないことを強調したものが、時と處とをかへて、文士、評論家の会同すところなどにのぞんでは、思想戦における言葉の位置を、あるときは勢いのあまるところ、いくさより、増産より、以上に評価してゐるのが実情である。』
巻頭言「創刊一周年」は、(一)から(四)で構成されていて、上に転記したのは(一)の部分である。ここまででも「屢」や「處」の転記に苦労した。作業の間、雑誌のページを開いているから、脆くなった紙質の破損が進んでしまう。
ということで(二)以降の転記は断念。
この号には、斎藤瀏氏(予備役少将・禁錮5年)の「皇道・國体・肇國の精神を貫く思想」が掲載されている。

ここで視点を変えて、遺品廃棄処分の実例を記録しておきたい。
画像参照。大型封筒の表書きは、亡母(末松太平夫人)の筆跡である。
「遺品の中に雑誌とまとめてあった伊勢新聞の切ぬき。
昭和日本外史 2・26の軍部の事らしいが番号が不足して揃わず
平成五年二月八日封」
切抜きは「伊勢新聞」掲載の「昭和日本外史・昭和青年日本の詩=編著者 大木○○之介」で、38回分がクリップで留めてある。史料と云うには不完全すぎるし、原版は「伊勢新聞」に重要保管されている筈である。そういう判断で、この“不揃いの切抜き”は“燃えるゴミ”として廃棄することにした。
「年表・末松太平」としては、平成元年に「末松太平(83歳)が熱心に切抜きしていた連載記事」の存在は記録に留めておきたいと思う。38枚の切抜きから、数枚を選んで、タイトルを紹介しておく。
●連載263回「第三章 昭和維新(223)十月事件」平成元年(1989年)8月11日掲載」
●連載295回「第三章 昭和維新(255)天皇機関説の周辺」
●連載314回「第三章 昭和維新(274)天皇機関説」1989年10月2日掲載」
●連載362回「第三章 昭和維新(322)神兵隊事件」1990年7月11日掲載」
1989年11月19日号(連載361回=天皇機関説・完了)に「昭和日本外史休載のお断り」が載っている。
『(前略)又しても救急車で運ばれ入院手術を受けねばならぬ破目になり愛読者の皆様に申し訳なく存知ます。神兵隊事件と相沢中佐、その後士官学校事件、二・二六事件、これが迷宮入りになっている。真相が真実が伝わっていない。だから私の見聞した知悉、体験した真相、これだけは残して置きたい。置かねば日本の歴史が誤った方向に行くと四十五年前の残稿を整理しつつ掲載し続けて来たが、これ以上は今の私の体力では無理であるので、病が癒えるまで休ませて下さい。二ヶ月も休養すれば回復します。そして又頑張ります。そうでないと死んでいった奴等が可愛想だ。埋もれて忘れられてしまう。今日的誤った世界観と国家観を以ってすれば不思議な位であろうがあの当時か純粋に至誠以って「国家と民族のため我魁けたらん」ことを何にも勝る栄與と考えて死んで行ったのである。(中略)死んでいった君達の遺志が堂々顕彰出来る国家に社会の実現のため私は奮闘する。せめて心してくれと祈る。昭和日本外史 編著者 小林正雄』
編著者の大木氏は「伊勢新聞の社主」ご自身であった。連載361回=1989年11月19日、連載362回=1990年7月11日、約8ヶ月の休載を挟んでの復活となった。
『二・二六事件の参加者はまだ健在である。その健在者の前で虚実が横行している。戦争を知らぬ者が戦争を語り、軍隊を知らぬ者が軍隊を語る。この位滑稽なことはないのだが面白おかしく書かれた売文は、人の視聴を集め易く虚実の構成に効を奏するものであるが、歴史を歪めていくことは正しく恐ろしいことである。私は兵から登った六年間の軍隊を知っている。征野千里激烈な戦闘に銃剣を着けて突入した者である。(中略)こうした人間が言う戦争を全く知らない、軍隊を知らぬ、いわんや武士道の何たるかも聞くこともなく知ることもない、ましてや罪人を作ることが仕事である検察官の記録等に真実が見いだせる理がない。故に虚構を逞しくする売文の類であるから滑稽であると批判するのである。再び言うことは二・二六事件の当事者は、行動した人は生きているのである。生き証人がいるのである。それらの人々の前でよくもかかる虚偽の作文が発表出来るものであると、その人間性を疑い、エコノミックアニマルに堕した恥知らずの動物であると視てはいるが強く抗議を行う。それとともに公共機関であるNHKが真実の発言を抑えて、封じ込み虚像を写し出す、においておや何をか言わんやである。このようにして虚実の歴史が流れ出すのであることを知って欲しい。(後略)』
小林正雄氏には、末松太平の葬儀(1993年)でお目にかかっている。(末松)