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Channel: ◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 
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◎大日本帝國の残滓 (執筆途中)

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選別して“廃棄”と決めた書籍の中にも“記録写真(廃棄記念?)だけ残そう”という気にさせる物もある。超大型書籍の「大日本府県別地図及地名大鑑」は、赤リボンで縛った大型封筒に保管されていただけに、邪険に扱うのが申し訳ない・・・



“大日本府県別地図”を構成する日本の府県は“北海道から沖縄まで”ではない。“樺太(の半分)から台湾、南洋、朝鮮、満州まで”である。



例えば、朝鮮・・・



◎福岡・青森・そして千葉(執筆途中)

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8月になった。






「末松」の表札は、もうない。

◎追悼・末松太平の部屋(執筆途中)

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掛軸4点の揃い踏み。末松太平が床の間に掛けていた“お気に入り”だが、東京板橋の我家では(床の間がないから)出番がない。
和室に(画鋲で)下げて、記録用の写真を撮る。昔の家屋と今の集合住宅では“天井の高さ”が全然違う。末松家の床の間に余裕で掛っていたのに、我家では天井ギリギリに画鋲で留めなければならなかった。
三上卓氏、村中孝次氏、渋川善助氏、そして某氏。掛軸の傷み具合から“掲出期間”が推測できるだろう。




この短冊は、ありふれた包装紙に挟んであった。ありふれた短冊であれば廃棄するつもりで裏側をチェック。西田税氏の署名に出会って、私の扱いが丁寧になった。
短冊と一緒に“記録用写真”を撮ったのは“棟方志功から竹内俊吉(青森県知事)に贈られた版画”である。東奥日報の記者だった竹内氏は「私の昭和史」にも度々登場している。竹内氏が知事になった後も、二人の交友は続き、それなりのエピソードを(他の方の著述から)知ることもある。
「彩りすぎて 醜女のなりし 傘の・・ 竹内俊吉」




“昼下がりの工事”8月2日(土)の光景。BGMを流すなら“Fascination”が相応しいと思う。



◎この原稿の筆者は誰?◎

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遺品資料の中には“筆者不明の原稿”が多数含まれている。どういう経路で手元に届いたのか、何のために保管していたのか、今となっては確認できないものばかりである。
例えば、この原稿は“400字詰原稿用紙×133枚”を二つ折りにして、紐で綴じられている。厚さ3cm、重さ830gのボリュームである。表書に“回顧と反省”とあるが、書名ではなさそうだ。筆者の名前もない。さて、これをどうするか。
133枚の原稿は(生原稿でなく)コピーである。オリジナル原稿は筆者(その御遺族?)の手元にある筈だから、廃棄しても何の問題もないだろう。しかし、廃棄する前に“末松太平が所有していた理由”を推理してみるのも、私の役目かも知れないのだ。



原稿の筆跡には見覚えがあった。保存されていた“末松太平宛の手紙”をチェックすれば、原稿用紙の筆跡に出逢うかもしれない。でも、それも億劫なので、133枚の原稿を流し読みすることにした。
「これ迄私が書いてきたことは、蹶起、軍事裁判、そしてその後の私の人生に於ける事件に関しての体験記である。しかし私はもう一度あの事件を回顧し反省し、主要なテーマに就いて私の考えを述べてみたいと思う」
直ぐに筆者は判明した。念のために私の書棚から“池田俊彦著「生きていた二・二六」昭和62年・文藝春秋刊”を取出して、該当部分を捜す。133枚の原稿は“第4章・回顧と反省”の全文だった。
133枚の原稿は、書籍では僅か31頁の中に収まっていた。流石に“何か変だな?”と気付く。いくら何でも短か過ぎるではないか。疑問は適中した。コピー原稿は“第一稿”だった。決定稿になるまでに、かなりの部分が割愛されていた。文中に数回登場した“末松太平”も“文藝春秋版・第4章”には全く登場していない。
原稿がそのまま“文藝春秋版”になっていれば、コピー原稿は迷わず廃棄できた。しかし、状況が変わってしまった。コピー原稿は(取りあえず)保存しておくことにした。

「昭和60年に入って、手記を書きながら、様々な問題にぶつかった。私は自分の考えを整理する為にも、先輩である末松太平氏の話を聞くことを思い立った。4月半ば、千葉の末松宅を訪れた私は、昼から晩までゆっくり末松さんと話すことが出来た。末松さんは網膜剥離という難病に罹り、二度の大手術を受けて、視力が甚だしく衰え、天眼鏡でしか本を読むことが出来ない状況であった。それにも拘らず、十月事件当時の話や、對馬中尉のこと、西田税のこと、大岸頼好のこと、そして戦後の旧軍人の動きなど、熱心なお話は尽きることはなかった。」(池田俊彦「生きていた二・二六」第3章から引用)
末松太平が“池田氏の原稿”を所有していた理由は、こういうことだ思う。第1章〜第3章部分の原稿についてのことは、私は知らない。



気分転換に“超大型の集合写真”をご覧いただく。この写真の大きさは“中公文庫”と比較すれば一目瞭然だろう。超大型写真は掛軸と一緒に丸められて保管されていた。丸みを押えるペーパーウエイトは“歩兵第五聯隊”の記念品。裏面には“歩兵第五聯隊本部復元記念、昭和43年11月3日、歩兵第五聯隊史跡保存会”と記されている。

「昭和10年11月13日鹿児島・宮崎における特別大演習終了後、都城飛行場における記念写真」
前列中央は昭和天皇である。両隣は高松宮親王殿下と閑院宮親王殿下。殿下と記しながら“陛下”と記さないのは私の落度ではない。当時は“それでよかった”のだ。
渡辺錠太郎大将、川島義之大将、真崎甚三郎大将、荒木貞夫大将、寺内寿一大将、香椎浩平中将、山下奉文少将、エトセトラ。数ヶ月後には“二・二六事件”に遭遇する方々が、平和な表情で並んでいる。人数が多すぎて画面に入れなかった中にも“歴史的人物”はいる。例えば、阿南惟幾中将である。
中公文庫が置かれたあたりに白い線(道路です)が見えるが、その道路の先にも兵隊の大集団が整列している。“豆粒のような”どころではない砂粒以下の扱いである。
“平成2年7月6日於麹町会館「国民の眼・国民の声」国民運動本部・社会モニター新聞創刊20周年200号記念 謹複製 今瀬順義”
“社会モニター新聞”の切抜きは、遺品資料の中に数点あったような気がする。それなりの交流関係があったのだろうか。(末松)

◎こういう原稿も現れた(執筆途中)

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「やませ吹く陸奥の浜辺の ━ 末松太平さん晩年の手紙から」
植木茂弘氏の原稿(コピー)が保存されていた。200字詰め×180枚の力作である。
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 この年の夏、末松さんに暑中見舞、また秋11月に近況お伺いを差上げたが返信はなかった。多分、目の悪化の故だと私は思っていたが、1993(平5)年が明けて1月18日の夕方、仙台の岩淵武雄氏から電話があり、前日の17日、末松さんが急逝されたのを私は初めて知った。
 岩淵中尉の件で、末松さんのご家族の方はまず岩淵氏に変事を知らせ、それが私の方に伝わったのであろう。
 19日夜6時から通夜、20日正午から争議告別式が千葉市営桜木霊園式場で執り行われた。
 誓願院釈徳海居士 享年87
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この“原稿の最終部分”をお読みいただけば、180枚の全体像が推察できるだろう。

◎こういう原稿もありまして…後篇 (執筆途中)

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植木茂弘「やませ吹く陸奥の浜辺の ━末松太平さん晩年の手紙から」 原稿180枚の後半部分である。
画像は、末松太平が保存していた“植木氏からの手紙”の一部だが、文面に“岩淵中尉の件”と書かれているのが見える。
現代史懇話会発行「史・78」に掲載された「三たび岩淵中尉の死について」は、植木茂弘氏の協力がなければ生まれなかった作品で、その辺りの“裏話”が、原稿後半の山場になっている。
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(中略=1985年3月26日付の長い手紙)この手紙にあるように、末松さんは目がよくなったら下北の東通村へ行きたい、行って二・二六のときの馬当番だった部下の墓に、野の草花でもよいから捧げたいと願っていたのだが、ついに行けなかったのではなかろうか。私の知る限り、末松さんの目はそれ以後好転したと聞いていない。(中略)4月24日午後、末松さんを訪ねると、目は依然よくないが、意気ますます軒昂の様子で、血盟団事件の古内さん(当時85歳)の話などで、二、三時間はつかの間に過ぎ、“あまちゃづる”に話題が及び、苗をもらって辞去したが、この“あまちゃづる”について追いかけるように末松さんから解説のコピーを同封した手紙が届いた。
(中略)文中、末松さんが

◎こういう原稿もありまして…後篇(執筆途中)

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植木茂弘「やませ吹く陸奥の浜辺の ━末松さん晩年の手紙から」 原稿180枚の最終部分である。
画像は“現代史懇話会「史・76」1991年7月発行)”から“「史・78」1992年4月発行”まで3回続けて掲載した“末松太平「二・二六事件断章/その7〜9」”のコピーである。
敢えて“本誌記事”でなく“コピー”の写真を載せている。

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1991(平3)年2月26日、第56忌追悼法要に列席した。(中略)この報告のため、翌27日の午後、末松さんを訪ねた。末松さんは目が悪いほか実に意気盛んで、俳句の話になり(中略)帰りに、山口富永氏の「二・二六事件の偽史を撃つ」という著書に、著者に代わって署名(末松太平)をして下さった。
末松さんはまた、俳句の雑談の折、毎年皇室行事として行われている新年歌会のことにふれ“毎年作歌して送っているが、私の歌は入選するしないに拘らず、ただ、天皇の許にできるだけ近付くことが出来ればという思いで作っている”と述べられた。天皇の名によって事件の方向は思わぬ結果を迎えたように私は思っていたが、当事者自身の意思、信念というものの厳しさを垣間見た思いだった。
秋、9月19日付で末松さんから来信。この手紙で、はじめて岩手県水沢市の故岩淵中尉のことにふれて、調査を依頼された。



◎4冊の刑務所ノート(執筆の途中です)

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“遺品資料”の中から、末松太平の獄中ノート4冊が現れた。私には初対面の資料である。「陸軍刑務所内ノート」と末松敏子(母)の字で記されている。平成12年5月に大型封筒に納めたものらしい。興味津々で封筒を開くと…、以下省略。

“こういう原稿がありました”シリーズ(?)のネタとして、面白そうではあるが、中身の公開は後回しにさせていただく。
“保存する資料”の紹介は後日にできる。今は急いで“廃棄予定の資料”を片付けないと、私の部屋の“ゴミ屋敷状態”が解消できない。

ゴミ屋敷状態を解消できたら、ブログの流れをもとに戻す。

◎スペシャルサンクス?=中野雅夫さま(執筆途中)

◎スペシャルサンクス?=村上方一さま(執筆途中)

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村上方一氏は、末松太平の晩年を支えた“パトロン”であった。何人かの方は(例えば間山洋八氏)それをご存知だった。


「年表・末松太平」の形式では、末松太平著「軍隊と戦後のなかで」の書評で登場することになる。



遺品資料の中から、これを発見したときは嬉しかった。




村上さんを失って、末松太平の“老残”に拍車がかかった。

◎敗戦記念日の出来事◎

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鈴木邦男氏から手紙をいただいた。「やまと新聞」のコピーが同封されていた。
鈴木邦男氏の著書には、何度か“末松太平”が登場して、鈴木氏をムッとさせたことが記されている。
「民族派なんて自分で自分にレッテルを貼るのは早いんだな」エトセトラ、エトセトラ。
時代は70年代という。その時、末松太平は(鈴木氏に向かって)どういう状況で“発言=挑発”したのであろうか。私には興味あることだった。それが、鈴木氏からの資料で一気に解決した。

「維新運動の源流を訪ねて ━証言・私の昭和維新━ 二・二六事件 末松太平氏に聞く ?〜?」
著書の中で鈴木氏が紹介している“末松発言”は、5回連続のインタビュー記事に全て含まれていた。

「年表・末松太平」の“1977年(昭和52)父71〜72才、私36〜37才”の部分を再録する。
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◎島津書房「証言・昭和維新運動」(2月5日刊)「二・二六事件/末松太平氏に聞く」
  ※ 人物紹介に「ベストン?役員」とある。
  ※ 第1部(末松など7人)は、夫々の〔証言・私の昭和維新〕として「やまと新聞」昭和49年9月11日〜11月12日に連載されたものに若干の追記を補足修正。
  ※ 資料(長谷川義正・本書の解説より)
    “昭和史の大きなエポックとなった二・二六事件は、今日おびただしい資料証言の洪水であるが、どこまで漁っても何故かむなしい。末松(私の昭和史)は、この難問を冷静に叙事する仕事になってくれた存在である。「今の右翼は何故、公害問題を取り上げて戦わないのか」と指摘する末松の、一見錯雑するかに思えて、もっとも端的な言葉に、昔と今を総括した土着の意見が見えるのではないか。そういうきがする”
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インタビュー記事に“聞き手”の名前は記されていない。聞き手=鈴木邦男。コピーを送っていただいたお陰で、疑問は解消した。感服したのは、鈴木氏の“聞き上手”なことである。上機嫌で話す末松太平の姿が、私には見えるような気がした。
島津書房「証言・昭和維新運動」は、末松太平の書棚に保存されていた。そして現在は“千葉市幸町”に運んだ“書籍を詰めた60箱のダンボール”の中で眠っている。「やまと新聞」は保管されてなかったように思う。だから、鈴木邦男氏のご親切はありがたいことだった。
鈴木氏の手紙には“本の方は全国の古書店をあたっていますが…”と書かれていた。いささか慌てて“本は所有しています”と連絡した。

雑談を少々。「末松太平事務所」は無料ブログだから、広告掲出が避けられない。その広告内容が“ピアノ高価買取”とか“遺品整理”とか、我家の状況に連動することに、些か困惑している。(末松)

◎スペシャルサンクス?=今井清一様 (執筆途中)

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今井清一氏。
???の数字は、ランキングを表すわけではない。登場者は順不同で“たまたま手に取ったもの”とご理解いただきたい。




末松太平の筆跡で「2.26資料 今井清一」と記されている大型封筒の中身である。




「今井コピー」と記された大型封筒の中身も記録に留めておく。


余談を少々。テレビ朝日で映画「少年H」が放送された。劇場公開の際には、繰返されるCMにウンザリして、観る気を失った記憶がある。その頃、ある必要があって“末松太平”をPC検索したのだが、ズラリ並んだ項目に何故か「少年H」が含まれていた。それは一種の掲示板(例の“2チャンネル”?)で、意外な記事に出会った。
曰く“下敷きは、末松太平さんの「私の昭和史」。末松氏が間違えて書いた日付も、ハードカバーで妹尾はそのまま書き写している。文庫版では修正したんだよね”。記事への反応も添えておく。“末松太平って調べてみたら、226で逮捕された軍人っていうじゃない。少年Hの作者とは、考え方が真反対の人にみえるけど”
さて、末松太平が“間違えて書いた日付”とは何処の部分だろうか。妹尾河童著「少年H」のハードカバー版と文庫版を丁寧に対比すれば(修正箇所が)判る筈だが、それほどの熱意はない。今日のテレビ放送も裏番組を視ていた。

◎スペシャルサンクス?=田村重見様 (執筆途中)

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二・二六事件の研究者にとって“田村重見編「大岸頼好 末松太平━交友と遺文━」1993年刊”は、貴重な文献のひとつになっている。例えば“鬼頭春樹著「実録相沢事件」河出書房新社刊”の参考文献リストに挙げられているし、中公文庫版「私の昭和史 二・二六事件異聞」では“田村編著”に掲載された“年表・末松太平”が、解説(筒井清忠氏)の根幹になっている。
田村さんには「大岸末松━交友と遺文━」以外にも多数の名著(自費出版)があり、末松太平の手許に届いていた。





田村重見氏は“二・二六事件”や“青年将校運動”とは無関係で“陸軍士官学校”出身者でもない。端的に言えば、教育界に一生を捧げた方である。
そういう立場の方が“ある状況”で末松太平に初めて出会い、最後まで親交を続けたことに感謝・・・


画像参照。田村重見氏と末松敏子(母)が語り合っているのは“末松太平の葬儀告別式”会場である。






当時の郵便貯金通帳である。田村重美氏の住所に着目していただきたい。

移転先の「中野区鷺宮」は相沢中佐(御遺族)の留守宅である。

鬼頭春樹著「実録相沢事件」は名著ではあるが、少しだけ残念に思うのは(相沢中佐の死後も)形を変えて・・・

◎筒井清忠著「二・二六事件と青年将校」(執筆途中)

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中央公論新社の橋爪さんから、懐かしい筆跡の手紙が届いた。
“筒井清忠氏より吉川弘文館から刊行した本を末松様にご献本したいとのこと、代送を承りましたのでお送りいたします。版元より届いたものをそのままお送りしております”
吉川弘文館の出版物が、中央公論新社経由で届けられたのは何故か。橋爪さんを煩わせた元凶は私である。人間関係が煩わしい私は(筒井氏に)メールアドレスさえ知らせていないのだ。私の方も、筒井氏の住所を知らない。高価な本を恵贈いただいたのに、礼状を出すこともできない。

敗者の日本史?「二・二六事件と青年将校」筒井清忠著。2014年8月1日、吉川弘文館刊。2600円+税。
「雪が舞う帝都を震撼させた二・二六事件。蹶起した青年将校たちの“昭和維新”はなぜ失敗し、彼らは敗者とされたのか。計画から実行・鎮圧、後世の影響までを克明に再現。近代日本史上最大のクーデター事件の真実に迫る。」

この本の“プロローグ”と“あとがき”に、筒井氏の意思が表れている。
“事件当時の「浮説」や「流言蜚語」をそのまま歴史的事実としたものや、それに尾ひれをつけた類の歴史叙述は長く続けられており、それは今日でも横行しているといっても過言ではない。本書は不正確な「流言蜚語」的歴史叙述には退いてもらうべく書かれたものである”
“若い世代の研究者の仲には相当全体の見通しがずれたことを書く人が増えて来たのだが、それはどうもこういう経験(末松註=事件関係者に直接会った経験)がなくなって来たからではないかと思うのだ。しかし、若い人にこれを望んでも無理だろう。どうすれば若い人にも臨場感がある現代史が書けるのか、考えねばならない段階に来ていると言えるだろう。”

少し前に、保坂正康著「東京が震えた日」中公文庫に記された“一連の書”批判について、私の感想を述べた。保坂氏の判断では、この筒井清忠著「二・二六事件と青年将校」も“一連の書”に加えられるのだろうか。
本書には“参考文献”として、80余冊が記されている。池田俊彦編「二・二六事件裁判記録」、大蔵栄一「二・二六事件への挽歌」、末松太平「私の昭和史」、田村重見編「交友と遺文」、今井清一・高橋正衛編「現代史資料四」、松本一郎「二・二六事件裁判の研究」等々である。しかしその中に、半藤一利氏&保坂正康氏の著書は一冊も含まれていない。半藤氏も保坂氏も“若い世代の研究者”ではないが“全体の見通しがずれたことを書く人”と看做されたのだろうか。

公平を期するために、保坂正康氏の近著について報告しておく。・・・・



◎残酷な夏 2014年8月

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「二・二六事件関係者の談話室」とは無関係のことを、どうしても記録に留めておきたい。

PC前の“シャガールの絵はがき”は、今年いただいた年賀状である。表面には“昨年、シャガール展がありました。上野でご一緒したことを思い出されます”と記してある。
差出人は、AFサンという歩友(女性)で、2000年からの長いお付合いである。ウオーキング大会で上京した彼女を、東京上野の“シャガール展”に案内したこともあった。

AFサンの住所は「広島市安佐南区八木4丁目☆☆ー☆」である。
PC画面は、昨日撮影された「八木4丁目☆☆ー☆」の光景である。土石流の痕跡(AF家の痕跡)で撮った写真てある。
撮影したのは歩友のYKサン(神戸市須磨区在住)で、金曜日に現地入りして、AFサンを捜していた。因みに、東京上野の“シャガール展”は、AF+YK+私の3人で鑑賞している。そういう親友関係だと御理解いただきたい。

土曜日の未明に、AFサンの家が滑落した辺りで“女性の御遺体”が発見された。土石流で埋まった土質の酷さは、テレビ放送で繰返し報道されている。しかも酷暑が続いている。埋まっていた御遺体の損傷については(流石のテレビ局も)報じていない。死者数が発表されても、その氏名が殆ど公表されないのは、DNA鑑定による身元確認に時間がかかるためである。こういうことは新聞も報じないから、現地滞在中のYKサンの報告で初めて得心できた。
日曜日(本日)の昼過ぎに、YKサンから“DNA鑑定結果”の連絡があった。AFサンと母上様の御遺体であった。記録に留めるのは、ここまでである。私の心象風景を記しても仕方がない。

末松太平の遺品資料に接する日々が続くと“資料の中で生き続けている方々”と対話しているような気持ちになってくる。末松太平も相沢正彦氏も池田俊彦氏も、私の心の中に住み着きはじめている。今日からは、AFサンと“対話”しながらのウオーキングを続けることになる。きっと、そうなる。(末松)

◎追悼の夏 2014年8月  (執筆途中)

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2014年の晩夏。“末松太平が住んでいた家”は、完全に姿を消した。
そして、2014年8月25日(月)、この土地も某社の所有になった。









◎私版・順序不同の人名録?=日下浩様 (執筆途中)

◎「季刊・ゐしんぴあ」が届いた◎

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森田忠明氏から「季刊・ゐしんぴあ」最新号が届いた。
編輯兼発行人:森田忠明、発行所:玉鉾書院、第29巻第2号 通巻126号。

「ゐしんぴあ」の紹介を兼ねて、目次を転記しておく。
◎詞華廻廊 ◎国状暴露の模範生 ◎「中国夢」排撃の布石を=森田忠明
◎人民日報の「朝日新聞」批判 ◎詔勅の正文に「敕」字体なし 
◎あるタイ人女性とプリンス・カズ、そして孔子学院 ◎戦争前夜か渦中か
◎随感=森田忠明 ◎船長の責務 ◎日本人よ ◎昭昭録 
◎〔史記漂遊〕箪食瓢飲=森田忠明 ◎嘯風雑記 ◎剣太刀とぐ=櫻風亭主人 ◎編輯余瀝

「季刊・ゐしんぴあ」は“正仮名遣ひ”を用ゐている。引用文も(向後断りなく)正仮名遣ひを用ゐます、とある。当然、漢字も“正漢字?”である。私には文学的な素養がないから“瀝・嘯・敕”など、目次を転記するだけでも苦労した。なお“剣”は(求める文字が捜せず)正確な転記ができなかった。森田夫妻に叱られるかもしれない。正確な文字は「PC検索=ゐしんぴあ」で確認していただきたい。
森田夫人=森田朋美サン。二・二六事件を描いた長編劇画「雪降リヤマズ」の作者である。(末松)

◎松本健一サンのこと・・・ (未完成)

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松本健一氏の逝去を知る。


松本氏からは“末松太平事務所”に長文のコメントを戴いたことがある。
しかし、彼自身の希望で「非公開扱い」にしていた。

コメントの内容は「理想日本」に関する事柄で、実に5回連続の投稿であった。
私に言わせれば、特に“非公開扱い”にするほどの内容ではない。
何を勿体ぶってるんだ…と、いささかムッとしたのも事実である。
松本氏の意向を無視して載せてしまおうかとも思ったが、
とりあえず非公開のままにしておいた。

(続きます)

諸事情ありまして
更新が途絶えております。

更新する意欲は失っていませんので、
しばらく休眠状態が続きますが
どうぞ御容赦下さい。

画像参照。
休眠状態の理由(のひとつ)はこの光景にあります。
我家から眺めた風景・・・
これだけでは ヒントにもなりませんね。



(2014年師走)

◎2015初笑い “×松×平”の奮闘◎

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昨年のクリスマスイブに転居したのだが、相変わらず“朝日新聞”を購読している。
適当に流し読みするだけだが、不思議に“要チェック”の記事は見逃さない。
1月28日(水)朝刊33面の「文芸時評=評論家・片山杜秀氏」が、その一例である。

片山氏が“今月の注目作”に挙げたのは、①嶽本野ばら「純愛」新潮2月号、②山下澄人「はふり」文学界2月号「鳥の会議」文芸新春特大号、③小林秀雄「『満州新聞』所載三篇」すばる2月号、である。この種の文芸誌を読むことは皆無だから、私には無縁の記事である。でも、一瞬、視野の片隅に「2・26事件」の文字が映った。気づいた以上は見逃せない。当然、飛ばし読みで小さな文字を追うことになる。

“三島由紀夫の小説に出てきそうな、嶽本野ばらの「純愛」のヒロインである”
“ヒロインの周囲には極右と極左が居る”
“この二つの筋は、一見バラバラ。が、隠れた構造があると思う。そこに気づけば、この小説は2・26事件に因むと分かる”
この程度の内容ならば、小説「純愛」に目を通す必要はない。ところが、片山氏の「時評」には“確かめずにいられない事柄”が記されていたのだ。え?、もしかすると・・・



“さらに、2・26事件に連座した青年将校の名をもじった極右の指導者も出てくれば、福島の決起日が26日だったりもする。「純愛」は2・26事件という世界の上に拵えられた小説なのだ”
2・26事件に連座した青年将校は多数存在する。しかし“名前をもじりやすい人物”となると、さほど多くはない。私も文筆者の端くれ(広告会社のクリエイター)だったから、こういうことは知恵が働くのだ。
ウオーキングの途中で、浦和駅前の図書館に寄り道して「新潮2月号」をチェックした。予感適中。極右の指導者の名前は「大松広平」だった。大松広平、×松×平、2・26事件に連座した青年将校から似た名前を探せば「末松太平」ひとりだけである。

小説の一部を書き写す。
「大松広平の皇頼の会は新右翼と呼ばれる団体だ。団体といったって大松一人なのだから、それを団体といってよいのかよく解らないが、大松が立ち上げ今は大松のみだ」
飛ばし読みした印象では、小説に登場する「×松×平」は、ユーモラスな存在である。チラリと登場する程度だと思っていたら、主役二人に次ぐ主要人物だった。そして、×松×平は(皇頼の会を立ち上げる前に)一水会に入れてもらおうとしていたという設定にも、微苦笑をそそられた。

クリスマスイブの転居については、稿を改めて・・・。(末松)
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