遺品資料の中には“筆者不明の原稿”が多数含まれている。どういう経路で手元に届いたのか、何のために保管していたのか、今となっては確認できないものばかりである。
例えば、この原稿は“400字詰原稿用紙×133枚”を二つ折りにして、紐で綴じられている。厚さ3cm、重さ830gのボリュームである。表書に“回顧と反省”とあるが、書名ではなさそうだ。筆者の名前もない。さて、これをどうするか。
133枚の原稿は(生原稿でなく)コピーである。オリジナル原稿は筆者(その御遺族?)の手元にある筈だから、廃棄しても何の問題もないだろう。しかし、廃棄する前に“末松太平が所有していた理由”を推理してみるのも、私の役目かも知れないのだ。
原稿の筆跡には見覚えがあった。保存されていた“末松太平宛の手紙”をチェックすれば、原稿用紙の筆跡に出逢うかもしれない。でも、それも億劫なので、133枚の原稿を流し読みすることにした。
「これ迄私が書いてきたことは、蹶起、軍事裁判、そしてその後の私の人生に於ける事件に関しての体験記である。しかし私はもう一度あの事件を回顧し反省し、主要なテーマに就いて私の考えを述べてみたいと思う」
直ぐに筆者は判明した。念のために私の書棚から“池田俊彦著「生きていた二・二六」昭和62年・文藝春秋刊”を取出して、該当部分を捜す。133枚の原稿は“第4章・回顧と反省”の全文だった。
133枚の原稿は、書籍では僅か31頁の中に収まっていた。流石に“何か変だな?”と気付く。いくら何でも短か過ぎるではないか。疑問は適中した。コピー原稿は“第一稿”だった。決定稿になるまでに、かなりの部分が割愛されていた。文中に数回登場した“末松太平”も“文藝春秋版・第4章”には全く登場していない。
原稿がそのまま“文藝春秋版”になっていれば、コピー原稿は迷わず廃棄できた。しかし、状況が変わってしまった。コピー原稿は(取りあえず)保存しておくことにした。
「昭和60年に入って、手記を書きながら、様々な問題にぶつかった。私は自分の考えを整理する為にも、先輩である末松太平氏の話を聞くことを思い立った。4月半ば、千葉の末松宅を訪れた私は、昼から晩までゆっくり末松さんと話すことが出来た。末松さんは網膜剥離という難病に罹り、二度の大手術を受けて、視力が甚だしく衰え、天眼鏡でしか本を読むことが出来ない状況であった。それにも拘らず、十月事件当時の話や、對馬中尉のこと、西田税のこと、大岸頼好のこと、そして戦後の旧軍人の動きなど、熱心なお話は尽きることはなかった。」(池田俊彦「生きていた二・二六」第3章から引用)
末松太平が“池田氏の原稿”を所有していた理由は、こういうことだ思う。第1章〜第3章部分の原稿についてのことは、私は知らない。
気分転換に“超大型の集合写真”をご覧いただく。この写真の大きさは“中公文庫”と比較すれば一目瞭然だろう。超大型写真は掛軸と一緒に丸められて保管されていた。丸みを押えるペーパーウエイトは“歩兵第五聯隊”の記念品。裏面には“歩兵第五聯隊本部復元記念、昭和43年11月3日、歩兵第五聯隊史跡保存会”と記されている。
「昭和10年11月13日鹿児島・宮崎における特別大演習終了後、都城飛行場における記念写真」
前列中央は昭和天皇である。両隣は高松宮親王殿下と閑院宮親王殿下。殿下と記しながら“陛下”と記さないのは私の落度ではない。当時は“それでよかった”のだ。
渡辺錠太郎大将、川島義之大将、真崎甚三郎大将、荒木貞夫大将、寺内寿一大将、香椎浩平中将、山下奉文少将、エトセトラ。数ヶ月後には“二・二六事件”に遭遇する方々が、平和な表情で並んでいる。人数が多すぎて画面に入れなかった中にも“歴史的人物”はいる。例えば、阿南惟幾中将である。
中公文庫が置かれたあたりに白い線(道路です)が見えるが、その道路の先にも兵隊の大集団が整列している。“豆粒のような”どころではない砂粒以下の扱いである。
“平成2年7月6日於麹町会館「国民の眼・国民の声」国民運動本部・社会モニター新聞創刊20周年200号記念 謹複製 今瀬順義”
“社会モニター新聞”の切抜きは、遺品資料の中に数点あったような気がする。それなりの交流関係があったのだろうか。(末松)