
1939(昭和14)年4月29日。末松太平は仮釈放された。禁錮4年の刑が“紀元節”の日に減刑発表され“天皇誕生日”に仮釈放。当時の時代背景が推察される事柄である。“仮釈放”だから、身柄引受人が必要だし、居住場所の届出も必要である。管轄の警察署に毎月一回の報告義務もある。ということで、末松太平は千葉市登戸2丁目の久保三郎邸(妻の実家である)に身をおくことになった。
そして時が流れて、2013(平成25)年。諸事情あって「久保三郎旧邸」は売却され、姿を消した。
家屋の処分は“各種史料の処分”を伴う。久保三郎(祖父)は千葉市長(2代目=官選の時代である)を務めた人物なので、面白そうな書類が押入れの奥から現れたりもした。画像はその一例で、東条英機氏からの感謝状、後藤新平氏からの書状、桂太郎氏からの書状、などなどである。
「末松太平の年表よりも、久保三郎の年表の方が、波乱万丈で面白いかも知れませんね」
これは、義弟(末松太平の長女の夫君)の正直な感想である。

久保三郎邸に続いて「末松太平が住んでいた家」も、諸事情あって間もなく姿を消す。頭を悩ますのは“末松太平の遺品”の処分である。
“遺品”から“私の小学校&中学校時代の通知表”が出てきた。5段階評価で示された“学習の記録”のことはどうでも良い。私は学習面では「優れている」子どもだったのだ。末松太平のDNAのお陰だろう。
苦笑したのは“行動の記録”である。千葉市立緑町中学校1年D組の私は“正しく判断する”や“指導力がある”や“独立心がある”などの項目は高評価(5段階の5)されている。しかし“ひとと協力する”はマイナス評価(5段階の2)なのである。これも末松太平のDNAのお陰であろうか。
そして、3年D組になると“ひとと協力する”の評価が「3」に上がった。その代わりに“ひとを尊敬する”が「2」に下がっている。
「自ら信じること厚く、言動が明確です。内面生活は豊富であり旺盛で人を惹きつけるものを持っているので、友だちに人気があり信頼されている。だがこれに対して昂然として溶け合おうとしない。教師や友人に対し積極的に好意を持って近付こうとすることが殆どない」。クラス担任の小川里先生による“所見”である。

末松太平のDNAについて記した理由は、坂本龍一&鈴木邦男著「愛国者の憂鬱」株式会社金曜日刊(2014年2月10日初版)の影響である。
この本の第2章「坂本龍一と鈴木邦男の源流」に「若者に対等に接した末松太平や福田恒存」のことが紹介されている。言うまでもなく、坂本龍一サンが末松太平を知っている筈がないから、鈴木サンが説明することになる。この部分が(息子の私には)実に面白い。
「僕は二・二六事件に参加した末松太平という人に何回か会ってるんです。ただ、末松さんは変った人で、話を聞いてたときは、ものすごく反発しましたけど」
「もう圧倒的に先輩だし、ものすごい経験をした人だけど、何か若者に対して絡むんです(中略)」
「ちょっとからかわれてる感じがして(中略)すごく感性が鋭いんですけど、若者に対する労りがなかったですね。何かピシャッと潰すんですよ。福田恒存っていう人もそうだったんですよ」
鈴木邦男氏の著作やブログに、末松太平が好意的に登場することがある。それを読むたびに、何となく頬の辺りが緩んでしまう。
訂正をひとつだけ。「愛国者の憂愁」124頁の脚注。末松太平が「福島県生まれ」になっていた。正しくは「福岡県門司」の出身です。(末松)