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Channel: ◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 
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◎余談のような記録・・・三題話(3代話)?

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1939(昭和14)年4月29日。末松太平は仮釈放された。禁錮4年の刑が“紀元節”の日に減刑発表され“天皇誕生日”に仮釈放。当時の時代背景が推察される事柄である。“仮釈放”だから、身柄引受人が必要だし、居住場所の届出も必要である。管轄の警察署に毎月一回の報告義務もある。ということで、末松太平は千葉市登戸2丁目の久保三郎邸(妻の実家である)に身をおくことになった。

そして時が流れて、2013(平成25)年。諸事情あって「久保三郎旧邸」は売却され、姿を消した。
家屋の処分は“各種史料の処分”を伴う。久保三郎(祖父)は千葉市長(2代目=官選の時代である)を務めた人物なので、面白そうな書類が押入れの奥から現れたりもした。画像はその一例で、東条英機氏からの感謝状、後藤新平氏からの書状、桂太郎氏からの書状、などなどである。
「末松太平の年表よりも、久保三郎の年表の方が、波乱万丈で面白いかも知れませんね」
これは、義弟(末松太平の長女の夫君)の正直な感想である。



久保三郎邸に続いて「末松太平が住んでいた家」も、諸事情あって間もなく姿を消す。頭を悩ますのは“末松太平の遺品”の処分である。
“遺品”から“私の小学校&中学校時代の通知表”が出てきた。5段階評価で示された“学習の記録”のことはどうでも良い。私は学習面では「優れている」子どもだったのだ。末松太平のDNAのお陰だろう。
苦笑したのは“行動の記録”である。千葉市立緑町中学校1年D組の私は“正しく判断する”や“指導力がある”や“独立心がある”などの項目は高評価(5段階の5)されている。しかし“ひとと協力する”はマイナス評価(5段階の2)なのである。これも末松太平のDNAのお陰であろうか。
そして、3年D組になると“ひとと協力する”の評価が「3」に上がった。その代わりに“ひとを尊敬する”が「2」に下がっている。
「自ら信じること厚く、言動が明確です。内面生活は豊富であり旺盛で人を惹きつけるものを持っているので、友だちに人気があり信頼されている。だがこれに対して昂然として溶け合おうとしない。教師や友人に対し積極的に好意を持って近付こうとすることが殆どない」。クラス担任の小川里先生による“所見”である。



末松太平のDNAについて記した理由は、坂本龍一&鈴木邦男著「愛国者の憂鬱」株式会社金曜日刊(2014年2月10日初版)の影響である。
この本の第2章「坂本龍一と鈴木邦男の源流」に「若者に対等に接した末松太平や福田恒存」のことが紹介されている。言うまでもなく、坂本龍一サンが末松太平を知っている筈がないから、鈴木サンが説明することになる。この部分が(息子の私には)実に面白い。
「僕は二・二六事件に参加した末松太平という人に何回か会ってるんです。ただ、末松さんは変った人で、話を聞いてたときは、ものすごく反発しましたけど」
「もう圧倒的に先輩だし、ものすごい経験をした人だけど、何か若者に対して絡むんです(中略)」
「ちょっとからかわれてる感じがして(中略)すごく感性が鋭いんですけど、若者に対する労りがなかったですね。何かピシャッと潰すんですよ。福田恒存っていう人もそうだったんですよ」

鈴木邦男氏の著作やブログに、末松太平が好意的に登場することがある。それを読むたびに、何となく頬の辺りが緩んでしまう。
訂正をひとつだけ。「愛国者の憂愁」124頁の脚注。末松太平が「福島県生まれ」になっていた。正しくは「福岡県門司」の出身です。(末松)

◎余談のような記録・・・「大逆事件」極秘取扱

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末松太平の遺品整理に関する記録である。先ずは“末松敏子宛に届いていた手紙”から話を進めていく。画像参照。2003(平静15)年3月に“W氏=長野市西長野”から届いた手紙である。
「前略、突然、こんな手紙を手にしてびっくりされていることでしょう。ご無礼をお許し下さい。先日、M先生(註:M氏の夫人)と長野市でお茶を飲んだ折、末松夫人と電話で話したことが話題になりました。私はMさんを通じて随分、末松さんと文通などでお世話になったものです(中略)」
「実はこれからが本題です。末松さんがかって所蔵している『大逆事件』(明治天皇を暗殺しようとする無政府主義者の計画で、12人が死刑になった事件)に関して『資料があるので見においでよ』と言われたことがありました。この事件は信州明科町が舞台で、いまだに全国的に関心があります。ところが当時(昭和37年頃)は、若輩者の小生は、この事件にあまり興味がなく、上の空で聞いていました」
「この年(63歳)になって、調べてみようと思い立ちました。(中略)太平翁の書籍や資料は旧宅に保存されている由。私の探しているデータ、資料が万一、存在するなら、お宅を調査させてもらいたいと思い、不躾な手紙を差し上げたわけです。何とぞ、ご検討のうえ、このデータの借用について、よろしくお考え下さい(以下省略)」
末松敏子(亡母)の対応は不明である。この手紙が届いた時点では、末松太平の死去(1993年)から10年が過ぎている。今更「お宅を調査させてもらいたい」と言われても、老母には迷惑だったと思う。



画像参照。M氏からの手紙は、大量の資料群と一緒に保管されていた。これらの資料は“久保三郎=末松太平の義父“が所有していたもので、何かの機会に末松太平の手元に置かれるようになったのだと思う。
大量の資料群は「大逆事件」に関連するものである。久保三郎は内務省の役人だったらしい(本人に直接確認したわけではない)から、警察の調書の類ではない。あくまでも「役人の書類」である。

(続きます)



大逆事件については浅薄な知識しかない。
手元にある史料を理解するためには、それなりの勉強が必要だろう。

“田中伸尚著「大逆事件」岩波書店刊”
2011年の日本エッセイストクラブ賞。

この書籍のことは、永田浩三サンの「極私的ブログ」で知ることができた。

(続きます)


◎「カウントダウン」への序説

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2014年7月1日。
ついに「末松太平の家」消滅の“最終月間”になってしまった。
既に「久保三郎の家=千葉市登戸2丁目=仮釈放された末松太平の“居留場所”になった家」は、昨年に取り壊されていて(売却されて)広い空き地に姿を変えている。買主は独身アパートのようなものを建てるつもりのようで、8月頃から建築を始めるらしい。
末松太平は、その後「杉並区天沼=仮釈放中だから転居には“国家”の許可が必要だった」を経て「千葉市登戸5丁目」に落ち着く。このあたりのことは、いずれ「年表・末松太平」の形で記す予定である。

6月最後の日、ウオーキングを兼ねて「末松太平の家」に顔を出し、数点の資料を持ち帰った。
画像は「広島陸軍幼年学校・第24期生卒業記念」と「陸軍士官学校・豫科第三期生卒業記念」の写真集である。



広島陸軍幼年学校・第24期生。
仏語班28名、独語班25名。末松太平は独語班であった。集合写真には仏語班と独語班の区別なく全員が写っている。写真が小さいので、末松太平の部分を拡大して右端に載せてみた。
末松太平は小倉中学の2年終了時点で、広島陸軍幼年学校に入学した。卒業写真に写っているのは“ハイティーン”の若者達である。因みに、写真集に添付された住所録には「福岡県門司市大里20丁」と記されている。



陸軍士官学校豫科の卒業証書。
陸軍士官学校の豫科で、末松太平(広島陸軍幼年学校出身)は渋川善助氏(仙台陸軍幼年学校出身)に出会い、親友になった。
渋川善助氏も写っている卒業写真の掲載は、稿を改めて。(末松)

◎“陸軍士官学校豫科”卒業記念写真

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昨日記した「久保三郎の旧邸」の現況である。久保三郎は、末松太平が仮釈放される際の“身元引受人”で、この久保三郎邸が取り敢えずの“現住所”になった。

“久保三郎邸の取壊し”に際しては、大量の物品が“いわゆる遺品整理業者”によって処分された。久保三郎は、千葉市長(2代目)という経歴もあって、遺品には“それなりの資料”も含まれていた筈である。
妹(末松太平長女)の汗と努力によって“重要と思われる資料類”は、私の手元に届けられた。報告が中断している「大逆事件関連資料」は、その一部である。久保三郎関連の資料は「二・二六事件」に関係がない“別次元”のものである。皆様への御披露は後日ということにして、話を進めていきたい。

“久保三郎の遺品整理”に手間取っているうちに“末松太平邸の取壊し”の日が迫ってきた。末松太平の遺品資料は膨大で、妹の汗と努力によっても“重要と思われる資料類”の選別が進まない。このまま“いわゆる遺品整理業者”に処分させるわけにもいかないので、妹は“資料類の緊急避難場所”の入手も選択肢のひとつにしているらしい。
渋川問屋の「憂国の間」のようなものではなく、単なる“資料部屋レベル”になると思うが。



昨日、表紙だけ掲載した「陸軍士官学校豫科第三期生」の卒業記念写真集である。卒業生の集合写真は合計11枚。集合写真の6枚目に末松太平(前から2列目の中央)が写っている。画面が小さいので部分的に拡大してみた。
最後列の中央に草地貞吾氏、その隣(左端から3人目)に森本赳夫氏。草地氏と森本氏は、末松太平著「私の昭和史」にも登場している。



渋川善助氏が写っているのは集合写真の8枚目で、重松光雄氏と高橋喜美蔵氏の間に写っている。こう記しても、重松氏と高橋氏の顔を知らない皆様には捜しようがないだろうが、敢えて曖昧にしておく。
多くの著作に載っている「渋川善助氏の肖像写真」は、末松太平の結婚式の集合写真から(渋川氏の部分だけを)複写したものが多い。そういうこともあって、ここでは無断転載を避けるために曖昧な紹介にとどめておいた。

6月上旬、ブログ「歴女同盟=新撰組本のライターだった私達のブログです」に、「渋川問屋レポ」が載っていた。訪れたのは“江翠”サンである。
渋川問屋には「2・26事件 渋川善助の部屋」と記された「憂国の間」がある。江翠サンは、・・・

(未完成です)

◎久保三郎邸に関わる事柄

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久保三郎邸(の跡地)は他人の所有になってしまった。“末松太平所縁の地”の記憶が風化しないうちに、関連した事柄を記録しておきたい。

画像は、昭和14年4月29日(昭和天皇誕生日)に“豊多摩刑務所長”から末松太平に渡された「仮出獄證票」である。
刑名刑期=禁錮三年(禁錮四年言渡ノ処昭和13年勅令第76号ニ依リ減刑)。昭和12年1月18日ヨリ執行。昭和15年1月17日刑期終了。仮出獄期間=8月20日(自昭和14年4月29日・至昭和15年1月17日。
因みに、私は昭和15年4月17日生まれである。天皇誕生日の恩赦に感謝しなくてはいけない。

本籍地 福岡県門司市大里・・・・。
仮出獄後居住地 千葉県千葉市登戸町2丁目・・・。久保三郎方末松敏子ノ許。
昭和14年4月29日ニ住居ノ地ニ到著スヘシ。

裏面には「仮出獄者心得事項」が、十項目にわたり細々と記されている。
曰く「刑務所ヨリ指定セラレタル日限ニ住居ノ地ヲ管轄スル警察官署ニ出頭シ此証票ニ認印ヲ受ク可シ若シ旅行数日ニ渉ルトキハ警察官署所在地ニ宿泊シ其警察官署ニ出頭シ認印ヲ受ク可シ」
曰く「正業ニ就キ善行ヲ保ツ可シ」
曰く「仮出獄中ハ住居ノ地ヲ管轄スル警察官署ノ監督ヲ受ケ其指揮命令ニ従ウ可シ」・・・以下省略。



1・昭和14年4月29日 千葉警察署に出頭
1・昭和14年6月2日 千葉警察署に出頭
1・昭和14年7月3日 千葉警察署に出頭
1・昭和14年8月4日 千葉警察署に出頭
1・昭和14年9月11日 千葉警察署に出頭
1・昭和14年10月9日 千葉警察署に出頭
1・昭和14年11月7日 千葉警察署に出頭
1・昭和14年12月7日 千葉警察署に出頭

末松太平と同じ日に仮釈放された 大蔵栄一大尉(禁錮4年)、小原竹次郎軍曹(禁錮5年)、北島弘伍長(禁錮5年)の方々も、所轄の警察署に出頭していたと思う。

昭和15年1月に“刑期終了”した後も、警察(公安?)の“監視”は続いていた。
この“監視”は、末松太平が死去(1993年1月17日)するまで続いていた。
葬儀(1月20日)を終えた日、末松太平邸に「公安第二課のS氏」が「長い間お世話になりました」と挨拶に来た。私とは初対面だが、末松太平とは面識があったのだと思う。S氏は“御香典”を置いて(部屋には上がらずに)直ぐに引き返した。






◎日本「愛国者」列伝

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末松太平のDNAを引き継いでいるから、我家の狭いスペース(3LDK+納戸)を大量の書籍が・・・

新しく「末松太平の遺品資料」を引き取るためには、私自身の蔵書をかなり処分しなければならない。

新しい本を買うのは、なるべく我慢しよう。
それでも、毎週数回は大型書店に立ち寄るから・・・

(未完です)

◎“助手席男”で“遺品整理ツアー”

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“助手席男”とは私自身を表す自虐ギャク。我家のクルマの法的所有者は私だが、恥ずかしながら自分では運転できないのだ。身分証明証代わりだった運転免許証も70歳過ぎに放棄してしまった。

家人の協力で“末松太平遺品整理ツアー”に向かう。
まずは、千葉市営霊園・平和公園墓地へ行く。



“陸軍士官学校・本科”の卒業記念写真集を発見する。



末松太平の親友・渋川善助氏は、退学処分を受けている。
残念ながら 卒業記念写真集には写っていないだろう。

しかし・・・

(未完成)

◎渋川問屋への思い


◎“ゴミ屋敷”回避大作戦◎

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7月12日(土)。諸事情あって今回も「賢崇寺の法要」は欠席。千葉方面に足を向ける。千葉三越を基点とした“ウオーキングコース”を歩いてから、消滅する日が迫った“末松太平邸”に立ち寄り、遺品資料の一部を持ち帰った。
今回は“助手席男”ではないから、持ち運びできる物量もこれが限度である。

画像参照。持ち帰ったのは僅か3品だけ。それでも、ウオーキング中の手荷物としては、ギリギリの重量だった。
遺品資料?と?は、写真がギッシリ詰め込まれた箱で、箱の表には「写真集 自分で集めてあった 平成5年2月1日」と、末松敏子(亡母)の記したメモが貼ってある。 箱の中身は?に238枚、?に316枚、小学校時代の写真やら、晩年半盲目になってからの写真やら、明治&大正&昭和&平成の情景が混在して詰め込まれている。



亡母の筆跡で「軍隊の教科書 典範例」と記された箱を開けると、所謂“豆本”サイズの冊子がギッシリ詰め込まれていた。

?「軍隊内務令=軍令陸第十六号」昭和18年3月・陸軍省印刷。
・「朕軍隊内務令ヲ制定シ之ガ施行ヲ命ズ 御名 御璽」
・「昭和18年8月11日 陸軍大臣 東条英機」

私には重要度が判らないから、以下は順不同で紹介しておく。
?「砲兵射撃教範=昭和5年1月15日・陸軍省検閲済」定価32銭。
?「諸兵射撃教範=昭和14年9月28日・陸軍省検閲済」定価40銭。
?「軍人勅諭集・附戦陣訓=武揚堂・昭和17年発行」定価15銭。
?「作戦要務令=昭和15年5月13日・陸軍省検閲済」
?「諸兵射撃教範第四部=尚兵館・昭和14年発行」定価25銭。
?「交通教範=昭和11年10月19日・陸軍省検閲済」定価17銭。
・「朕交通教範ヲ改定シ之ガ施行ヲ命ズ 御名 御璽」「陸軍大臣 田中義一」
?「航空兵操典=武揚堂・昭和16年発行」定価20銭。
・「朕航空操典ヲ改定シ之ガ施行ヲ命ズ 御名 御璽」「陸軍大臣 東条英機」
?「衛生法及救急法=昭和17年11月6日・陸軍省検閲済」定価10銭。
・「陸普第511号 軍隊教育令ニ依ル衛生法及救急法別冊ノ通定ム 大正12年陸普第377号ハ之ヲ廃止ス 昭和11年2月4日 陸軍大臣 川島義之」

既に私は「軍隊教育令(摘録)」という冊子を所有していた。昭和41年2月・財団法人偕行社発行。一部〒とも100円。
・中身は「朕軍隊教育令ヲ改定シ之ガ施行ヲ命ズ 御名 御璽」「昭和15年8月17日 陸軍大臣 東条英機」の復刻版である。



私の部屋は、山積した資料類で“ゴミ屋敷状態”になりつつある。“末松太平邸”に保蔵されている“書籍”には未だ手をつけていない。末松太平の蔵書(の一部分)を我家で引き取るためには、私自身の所有物(の殆ど?)を廃棄する必要がある。

“末松太平邸”から持ち帰ったばかりの遺品資料のスリム化を試みる。
遺品資料?の写真を101枚廃棄。?の写真を70枚廃棄。171枚の写真が“この世”から姿を消した。執着を振り切るためには、手で小さく破り捨てるのが良い。これが私のやり方である。専門家が見れば貴重な資料類が含まれているかも知れないが、気にしていては作業が進まない。(末松)

◎暑中お見舞い申上げます

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気温30度を超える日々になった。ウオーキング愛好家の私には“熱中症対策”が最重要課題になる、

「裾野の兵士日射病事件 罹病3百名を突破 重患は悉く狂ふ 死亡7名は発狂自殺」
「昭和8年7月2日。富士演習場において、歩兵第49連隊との対抗演習(旅団長朝香宮殿下総監)が行われた際、連隊に多数の日射病患者が発生し、8名の殉職者を出した」
末松太平の遺品の中にあった資料コピーである。コピー複数が残っていたから(何かの理由で)知人友人にも送付したのだろう。



続きます。


◎猛暑お見舞申上げます

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末松太平が渋川善助に送ったハガキである。正しくは“きがは便郵”と記すべきであろうか。
季節柄“暑中見舞ハガキ”として紹介したいが、郵便局の消印(10年10月5日)があるから嘘はつけない。郵便料金“1銭5厘”から「二・二六事件まで数ヶ月」の世相を想像していただきたい。
渋川善助のアドレス=東京都小石川区水道端 直心道場。
末松太平のアドレス=



画像参照。末松太平の遺品資料の中に“渋川善助の部屋”の写真が1枚だけあった。

江翠サンの記事で“渋川問屋の現在”を視ることができたが、

◎“遺品資料”対応マニュアル

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妹(末松太平の次女)から家人の許に“電話相談”があったという。言うまでもなく“書籍の処分”についての相談で・・・







◎処分・処分・また処分

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末松太平直筆の“履歴書のようなもの”が現れた。市販の履歴書用紙に書かれたものではなく、自分用に(誰かに履歴を訊ねられたときに、いちいち説明するのが面倒だから)記したものだと思う。

末松太平
原籍 北九州市門司区大里・・・・
現住 千葉市登戸・・・・・
明治38年9月11日生(原籍地出生)

福岡県立小倉中学校 二年終了後 広島幼年学校入校(大正9年)
士官学校卒(昭和2年 39期生)同年少尉任官 青森歩兵五聯隊付
昭和6年11月より昭和9年4月まで満州事変出征
昭和10年8月 大尉進級 歩兵砲隊長
昭和10年10月4日 結婚
昭和12年1月 二・二六事件に連座、免官、入獄
昭和14年4月29日 出獄
(戦中の職歴)
富士飛行機KK社員
満州協和会中央本部職員
機帆船会社(和興組)友人と経営すると共に、航空兵器総局嘱託
(終戦後の職歴)
戦後、財団法人在外戦災者協力会(海外よりの引揚者援護)創立
ベストン株式会社 取締役(ベストン=セメント防水剤)=小田急傍系

・・・



ベストンの勉強。封筒の表書きは末松敏子(母)の筆跡である。

・・・

「ベストンの勉強」は、記録写真を4カットほど撮ってから廃棄処分にした。



画像参照。これも廃棄処分にしたものである。

廃棄したもの(保存する必要がないと判断したもの)を、記録に留めている理由を述べておく。

・・・



◎処分・処分・まだ処分

◎処分できるかな・できないのかな

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土日月の三連休。土曜日と月曜日は“ウオーキング”を優先し、日曜日だけ“遺品整理”に千葉に向かった。画像=末松太平邸の現状。取壊し間近だから“庭木の手入れ”も怠ったままである。
今日は、義弟とタッグを組んで“末松太平が保存していた大量の手紙”を選別&廃棄した。
残されていた手紙は「拝復」で始まるものが多い。

・・・



“処分できるかな”の実例。ポリ袋に大量の“真綿”が保存されていた。



“処分できるかな”の実例。
「万葉集」上下2巻。しかし、何気なく表紙を開くと、末松太平の筆跡で「◎◎に貰った」と記されていた。◎◎とは誰か。


◎「遺品資料類」の重要度について (執筆進行中)

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遺品資料類への対応は“二・二六事件関係者”に共通した悩みである。末松太平は“事件の脇役”に過ぎない存在だから、遺品資料類が全て消滅しても、現代史にさほど影響があるわけではない。しかし“事件の主役”の遺品の場合は、次元の違う話になる。
画像の「二・二六事件遺書等関係資料御預かり一覧」は、2004年6月30日の時点で、安田善三郎氏(安田少尉実弟)が作成したものである。ご遺族諸氏の高齢化が進むにつれて、仏心会(二十二士の遺族会)世話人代表の安田氏宛に「遺書や資料を仏心会に寄贈したい」という依頼が急増していた。

相澤中佐揮毫(軸装3本=香田大尉宛1本を含む)、伝磯部一等主計揮毫(軸装1本)、磯部一等主計遺書(軸装1本)、中橋中尉遺書(和風巻物1本=筆者不詳)、西田税氏遺書(軸装1本)、河野大尉遺書(複写4枚)、河野大尉宛弟正五氏書簡(複写9枚)、ナイフ写真(2枚=河野大尉が自決に使用)、殉難警官葬儀会葬礼状(複写2枚)、光風荘関係(コピー8部)、自決場所の記念石碑写真(1枚)。
………以上は、河野大尉の御遺族が安田氏に預けたものである。

夫々の細目については割愛するが、香田大尉の御遺族から、安藤大尉の御遺族から、丹生中尉の御遺族から、對馬中尉の御遺族から、高橋少尉の御遺族から、安田氏のもとに(この時点で)大量の資料が預けられていた。
「上記以外に、北一輝氏の遺書は賢崇寺様に寄託してあります。香田大尉の遺稿1点は賢崇寺様に保管をお願いしてあります。安田優関係資料は安田宅に保管してあります」

後日談にも触れておく。
・・・・・・




前回に“処分できるかな?”と記した「万葉集・上下2巻」についての続報である。
表紙を開くと「渋川より貰った 末」と、走り書きしてあった。
渋川善助氏との“仲良しだった証”と思えば、捨てるに捨てられないではないか。それにしても“いつ貰ったのか”日付が記されていれば、情景を想像できたのに、と思う。

坪田譲治著「善太と三平」という児童文学の名作がある。東宝映画「善太と三平物語・風の中の子供」1957公開を、面白く観た記憶もある。久保賢クンと小柳徹クンが生き生きと演じていた。やがて久保賢クンは日活映画の青春スター・山内賢になり、和泉雅子と唄った「二人の銀座」は大ヒットした。

・・・






◎渋川善助と三角友畿(執筆途中)

◎パズルを解いていく楽しみ (執筆途中)

◎遺品資料移動大作戦(執筆途中)

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7月29日(火)。“助手席男”で現地到着すると、積出作業は終盤にかかっていた。作業効率を優先して、庭の樹木は伐採済みである。
大量の書籍類は、前日に数人の手で“箱詰め”を完了し、既に運送トラックの奥に納まっているらしい。どれくらいの量になったのか気にはなるが、敢えて訊ねない。



画像参照。廃棄対象の書籍&雑誌類である。保管対象と廃棄対象の最終選別は(大雑把な区分を示唆した上で)妹夫妻に一任していた。ひとつひとつチェックしていると、それなりの価値は見出せるから、何も棄てられなくなってしまう。文庫サイズや新書サイズの書籍は、全て廃棄して良い。妹夫妻への指示である。
廃棄対象書籍の集積場所は“床の間”だった処である。渋川善助氏や村中孝次氏や三上卓氏の“掛軸”が掛けられていた場所である。昔話をすれば、60年安保の頃、末松太平を訪ねてきた石井一昌氏(維新行動隊・隊長)に出会ったのはこの座敷だった。石井氏はやがて“護国団”を統率することになる。
“床の間”に詰まれてた“廃棄対象本”は思っていたよりも少なかった。一昨日に指示したときは、もっと大量だった筈である。

・・・の中から数冊を救い出す。







◎「末松太平の部屋」の消滅(執筆途中)

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昨夜は23時頃に帰宅した。車のトランクにも後部座席にも“お持帰り”を乗せている。これを我家(15階マンションの3階)に運ばなくてはならない。疲労困憊ではあるが、明朝になると、エレベーターを居住者が利用する。運ぶなら「今でしょう!」というわけである。

引越当日と翌日は、樹木類の撤去作業に費やされ、7月31日(木)からは家屋の破壊作業が始まる。フリータイムの今日は“ウオーキング”の予定を入れていた。




末松太平の部屋・・・

三原朝雄氏。防衛庁長官だった頃。秘書の方が撮影して、後日送って下さった写真だと思う。
末松太平とのツーショットもあるが、母との写真を掲載した。
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