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Channel: ◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 
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◎夜明けのうた・・・

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朝6時。我家の居間から眺めた夜明けの光景である。

諸事情あって、昨年のクリスマスイブに、同じ敷地内の“B棟の3階”から“C棟の13階”に転居した。
諸事情といっても“夜逃げ”や“夫婦別居”したわけではない。家人のちょっとした思いつきである。
画面右側に見えるのが旧宅(B棟)で、郵便物のチェックに毎日訪れている。
住民票はそのままで、運転免許証や健康保険証など身分を証明する住所も“B棟”のままだから面倒が多い。郵便物不在連絡票があると(再配達を依頼しても不在だから)郵便局に受取りに行く。年賀状を兼ねて“転居”を伝えているから、一般郵便物は“C棟”に届く。ヤバイのは御役所関係からの郵便物である。

大量の書籍&資料類は、大胆に分別するしかなかった。
①新居(C棟)に運ぶもの、②旧居(B棟)に残留するもの、③思い切って廃棄するもの、結果的に“ほぼ3等分”になって、大量の書籍を廃棄してしまった。
「読書家の方が亡くなり、その蔵書を図書館に寄付しようとしても、最近は断られることが多いと聞く。学者さんしかりだ。よって生きている間に、断捨離ということで紙クズとして処分する」=林真理子“夜ふけのなわとび”週刊文春2015.1.15号。

◎三島由紀夫氏の名刺

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1月17日は、末松太平の“23回忌”だったが、なにもしなかった。
いつものようにウオーキングに出発。千葉方面に向かったのが、私流の親孝行プランである。
“墓参ウオーク”と称して、末松太平の墓前に花を供えてきた。

ウオーキングの途中で“千葉市登戸5丁目”と“千葉市登戸2丁目”の現況を視察する。
登戸5丁目=末松太平宅の跡地。今は更地の状態。三井リハウスの看板は撤去されていた。
登戸2丁目=末松敏子実家(仮釈放された末松太平の寄留先)の跡地。独身アパート2棟が建築中だった。
いずれにしろ、もはや私とは無縁になった場所である。

“末松太平の家”が消滅すると、気づかぬうちに「故郷喪失」のような心理状態に陥ったらしい。
そういうことで、当ブログを更新するのも億劫になってしまった。

末松太平の“遺品書籍”の殆どは、長女(私の妹)の家に移動させた。
引越業者のダンボール箱で60個を超える書籍が、妹の家に詰まれている。

◎初公開・宗教法人千鳥会編「千鳥の栞」原稿◎

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三島由紀夫氏の名刺に触発されて、秘蔵の資料を紹介する気になった。
“最近読んだ本で、末松太平氏の『私の昭和史』ほど、深い感銘を与へられた本はない。軍人の書いた文章とは思へぬほど、見事な洗練された文章であり、話者の「私」の位置決定も正確なら、淡々たる叙述のうちに哀切な叙情がにじみ出てゐるのも心憎く、立派な一篇の文学である。殊に全篇を読み来って、エピロオグの「大岸頼好の死」の章に読みいたったときの、パセティックで、しかも残酷な印象は比類がない(後略)”三島由紀夫・中央公論(昭和38・5月号)掲載。

「大岸頼好の死」には、晩年の大岸氏が信仰していた新興宗教のことが記されている。
その新興宗教が「宗教法人 千鳥会」である。



“千鳥の栞 宗教法人千鳥会編”
直筆の原稿は、1~103、104~206、に分けて綴じられている。
筆跡は末松太平のものではない。表紙の裏には“梶光之”という方の言葉が記されいる。

目次 『宗教は阿片なり』
科学界の悲鳴/草の葉の悲歌/信仰と科学/近代心霊科学の生成とその結論/欧米に於ける心霊現象/千鳥会霊能者概見/心霊研究から何を学んだか/千鳥会に就いて/千鳥会生成の背景と展望/千鳥神相/千鳥会の目的及心霊との道交/千鳥神伝人の特長/病難等に対する直接的効能/千鳥会の※※/千鳥眞心訓/千鳥会の現在配置。
(註:※※の二文字は、漢字の素養のない私には判読できない)

この原稿を末松太平が所有していた理由は判らない。多分、大岸頼好氏から預かっていたのだろう。
大岸氏が逝去した後、千鳥会がどのような歴史を辿ったかも、私には判らない。

千鳥眞心訓。諸人よ、只一筋に五戒を守り三律を行ぜよ。
信仰にかかわることだから、五戒と三律の転載は慎みたい。(末松)

◎昭和二十七年 十七回忌法要

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今年も“2月26日”が近付いた。
さて、どうするか、というのが正直な気持ちである。

紹介した「二・二六事件諸士 遺詠集」は、昭和27年7月12日に発行された冊子である。
奥付には「無断転載を禁ず(非売品) 発行者 佛心会 代表者 河野司」と記されている。
二十二士の遺詠を紹介した出版物は、その後いろいろと登場したが、
この遺詠集には、群書とは異なる特別の思いがこめられているように思う。  

「まへがき」
「本年は二・二六事件関係にて刑死または自決せる二十二士の中、十八士の十七回忌を迎へました。此の秋に當り私共遺族十六年間の悲願でありました合同埋葬と建碑を果し得ました事は、何物にも例へ難い欣びであります。
此の欣びを機とし、故人達の秘められた遺書、遺詠の中から主なる、和歌、俳句並びに漢詩を抄録し、これ等を通じて故人達の切々たる悲懐を御汲取り頂くよすがにもと、此の小冊を纏めました。
謹んで二十二士の霊前に捧げ、併せて各位の御高覧を仰ぐ次第です。
昭和二十七年七月十二日 佛心会 責任者 河野司」



◎「昭和史の現場」について

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今年も“2月26日”が近づいた。前回は欠席だったが、さて今回はどうするか。

ウオーキングの途中で 大型書店に立寄る。

“太田尚樹著「昭和史の現場」青春出版社・2月10日発行”が平積みされていた。
“歴史的大事件の舞台となった東京の「現場」に浮かび上る激動昭和史のもうひとつの顔とは…”という内容の新刊書である。当然、二・二六事件に多くの頁が割かれている。

最近の“この種の本”は、過去の出版物からの引用だけの“デッチアゲ本”が多いのだが、太田尚樹氏は賢崇寺の法要にも参列して、安田善三郎氏(安田少尉実弟=前・仏心会世話人代表)、香田忠維氏(香田大尉甥=現・仏心会世話人代表)、今泉章利氏(今泉少尉次男=慰霊像護持の会世話人)の話を訊いている。そういう意味では、誠実な本のような印象を受ける。

しかし、後半部分に、見過ごすわけにはいかない記述があった。

池田俊彦少尉を侮辱している表現である。
池田俊彦氏が“栗原中尉の思想”に疑問を抱いていた、というような記述である。
池田氏から直接聞いた話ではない。ある人(賢崇寺に来ていた人だと思う)が言っていたという、無責任な記述である。

(続きます)

◎ストレス・ストレス

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諸事情あって、今回も「2月26日の法要」に参列できなかった。

末松太平邸の消滅やら、我が家の転居やら、あれやこれやとストレスの連続攻撃に耐える日々が続いているが、2月初旬にPCのハードディスクが壊れて、さらなるダメージを与えてくれた。

応急対応で、廃棄対象で旧居に残留していた「ウインドウズ98」を運んで来て「フレッツ光」に接続。受信メールだけは目を通すようにしていた。
今日から何とか「Vista」が動くようになったが、殆どの機能が利用できない。
取り急ぎ、つらな様、江翠様、その他の皆様に、現状報告だけはしておきたい。

NHKのテレビ番組は、一応チェックした。
鈴木貫太郎氏に関する番組、高橋是清氏に関する番組、被害者サイドからの「歴史講座」が続いたが、大した内容でもないので冷静に眺めていた。

画像=賢崇寺・二十二士の墓。草に覆われた背景が、時の流れを物語っている。因みに、末松太平は左端にいる。(末松)

◎再びPC不調で・・・

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更新が遅れます。

申し訳ありません。

HD入替え後の設定過程に原因があると思いますが、我家のDELL(Vista)は絶不調。あれこれと弄っていたら、メールもインターネットもNG状態になりました。
経過省略。なんとか修復させて、当ブログの記事を書き足している現況です。

◎千葉市立緑町中学校◎

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私が60年前に卒業した母校である。我家(末松太平の住居)から中学生の足でも7~8分。校庭のスピーカーから流れる“予鈴”に急かされて家を飛び出すことも度々で、恥ずかしながら遅刻の常習犯だった。

旧友の“松●欣●クン”から電話をいただいた。欣チャンと私は、緑町中学校では面識がなく、千葉県立千葉高校に入って親しくなった。お互い社会人になった後も交流が続いていたが、現在では“年賀状だけの付合い”さえも途絶えていた。だから、突然の電話にビックリした。
「ブログで“更地になった住居跡”の画像を見て、哀しくなって電話したくなった」という。登戸5丁目の家は、欣チャンにも懐かしい場所だったのだ。
末松太平が元気だったころ、我家を訪れる度に、欣チャンは末松太平の“議論の相手役”を務めていた。長男(私)に無視されていた“元陸軍大尉”は、長男の友人(欣チャン)の来訪が待ち遠しかったに違いない。
「お父上は、考え方の相反する若造相手でも、いつも真剣に議論してくれた」
「お父上が㈱ベストンに通勤していた頃、電車で一緒になって、話相手になることも多かった」
“末松太平の墓”の“アドレス”を訊ねられた。松●家の墓(奥様が埋葬されている)も、同じ市営霊園(千葉市平和公園)にあるという。

当ブログに“中●晴●サン”からコメントが届いた。彼女は、緑町中学校の級友だが“仰ぎ見る存在の超秀才少女”だった。東京の高校(当時は東大合格数№1だった日比谷高校)に進んだ彼女とは、その後(20代の頃に)数回顔を合わせただけの遠い存在になっていた。だから、突然のコメントにビックリした。
コメントは「投稿ではありませんが」というタイトルで「ブログ拝見して、思わず、お久しぶりですと、ご挨拶したくなりました」と記されていた。実に50年ぶりの消息である。
彼女と最後に出会ったのは、1965年の西銀座だったと記憶している。彼女は街頭で“正義の戦い”を行っていた。差障りがあると困るので詳説は避けるが、勤務先を相手の“正義の戦い”であった。
彼女の生き方に影響された私は、1966年に勤務先に“戦い”を挑んで哀れ敗北、福岡支社への流刑となった。

偶然にも、緑町中学校卒業生ふたりから、ほぼ同時にメッセージが届いたことに、人生の楽しさを感じた。PC乱調にストレス&ストレスの状況なので、メッセージに救われる思いがした。(末松)

◎「国民新聞」休刊の報せについて◎

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山口富永氏(大正13年生)から手紙が届いた。数年前の電話で「貴方の父上の歳を超えてしまった」と笑っていたが、卆寿を超えても若々しい“発信力”を持続していることには感服させられる。

“お変わりありませんか。
 国民新聞の私の記事をみてもらいたく、おおくりします。
 御尊父様のことを書いておきました。私もこのごろ眼が不自由になってきました。
 「国民新聞」が廃刊になり、最後の一文となりました。
 御尊父様を私に紹介してくれたのは、山田恵久さんでした。

 「わが昭和史メモ」として
 1・真崎大将の墓を訪ねて
 2・近衛上奏文の歴史的意義
 3・岩淵辰雄に刺客をさしむけた東条軍閥政権
 4・日本崩壊の始まりの銃声
 5・末松太平大尉の二・二六
 を連載しました。(後略)”

山田恵久氏は「国民新聞」の編輯兼発行人である。末松太平が逝去した際には(父親の交友関係に疎い私のために)いろいろと御尽力いただいている。
そういうこともあって「国民新聞」廃刊の報せは、いささかショックであった。



画像参照。1992年(平成4)7月25日、山田恵久氏のカメラでセルフタイマー撮影した写真である。
末松太平の「米寿」を祝う会。西千葉駅前のみどり鮨に、末松夫妻を招待し「御祝」を贈ったのは、以下の6名。前列左端が相澤正彦氏(相澤中佐・長男)、右端が山田恵久氏、後列左から今澤栄三郎氏、山口富永氏、田々宮英太郎氏、今泉章利氏の皆様である。
末松太平が死去したのは翌年1月17日だから、この写真が“最後の晩餐”になってしまった。

「国民新聞」平成27年3月25日号。巻頭に掲げられた山田氏の挨拶を紹介しておく。
“冠省 明治23年に徳富蘇峰が「言論報国」の理念を掲げて創刊した小紙「国民新聞」は、この程つひに矢玉尽き、刀折れ、「言論千早城」は落城。三月二十五日をもって休刊することになりました。リーマン・ショック以前からの超過債務が重しになり、もうこれ以上前に進める状況ではなくなりました。挙句に一月末にわたくしが悪性脳腫瘍に罹患してゐることも判明し、小紙の発行は残念乍ら断念せざるを得ません。 
読者の皆様には長い間ご愛読いただきまして、まことに心より感謝を申し上げます。なほ三月十二日以降は購読料をご送金なさいませぬやう宜しくお願ひゐたします。ありがたうございました。敬具。   国民新聞社主幹 山田恵久”

“「国民新聞」の復刊を希う常連執筆者の声”が掲載されている。
“「国民新聞」は国体護持を願う全ての人々に開かれている。同志の中にあっても、皇統、憲法、TPP、原発等々、必ずしも合致しない諸点があったが、山田主幹は、本来戦うべき敵は誰なのかを見極め、同志の優れた論考は、ともに同じ紙面に載せた(後略)。飯嶋七生”
思いをこめた文章を寄せているのは16名。私が親しくさせていただいている方々では、森田忠明氏と山口富永氏のお二方が“常連執筆者”であった。
“(前略)幸ひ現今では不治の病といふのでもないのですから、先進医学療法の駆使によって可及的速やかに障碍を軽減し撃退し、美酒も待つほどに。一日も早くもとの健康体を取り戻して戦線復帰を果たされますやう、ただただお祈りするばかりです。”
森田忠明氏の祈りが胸に迫ってくる。

「国民新聞」最終号(第19202号)掲載。山口富永“わが昭和史メモ(四)”
「末松太平大尉の二・二六事件 ― 軍服を着た百姓一揆だった」(末松)

◎“渋皮”善助氏の慨嘆

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ウオーキングの途中で いつものように大型書店を視察。なんとかという出版社の「歴史入門シリーズ④」が目に留まった。シリーズ④は「2・26」特集。いわゆるムックスタイルで外観は悪くない。
言うまでもなく、この種の出版物に“真実”を求めようとは思わない。当時を知らない世代に“表層”を把握してもらうだけでも、それなりの意義がある。新しい「二・二六事件の関連本」が書店に並ぶだけでも、なんとかという出版社に感謝しなくてはいけない。
しかし、内容的には“トンデモ本”の一種だったので、ガッカリしてしまった。

この出版物の内容は、複数の人間によって記されているらしい。題材ごと(例えば、相澤事件とか高橋是清とか)の筆者名が記してないから“らしい”と推察するしかないが、事件の捉え方が混乱している。


(続きます)



◎「日本のいちばん長い日」余談

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映画「日本のいちばん長い日」の公開が近づいた。

・・・続きます。

◎70年目の敗戦記念日

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BSプレミアムで、岡本喜八監督作品「日本のいちばん長い日」1967年作品を観た。
初公開当時の私は26歳。福岡市の映画館で観た。勤務先の労働組合結成に関わった影響で福岡支社に転勤させられていたのである。

現在公開中の原田眞人監督作品には“原作=半藤一利「日本のいちばん長い日 決定版」(文春文庫版)”と記されている。
しかし、岡本喜八監督作品には“原作=半藤一利”の名前はない。作品スタッフとして記されているのは“脚本=橋本忍、大宅荘一編「日本のいちばん長い日」より、文芸春秋「戦史研究会」株式会社文芸春秋版”である。

このあたりの経緯については、半藤一利氏自身が文春文庫版“あとがき”に記している。

(続きます)






1945年8月15日の記憶は、千葉市登戸5丁目(末松太平宅)の庭に深く掘られた防空壕の入り口から見ていた西の空である。



近況報告

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長い眠りから醒めて・・・


また、ひと眠り・・・

謹賀新年2016

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家人の誘いで皇居参賀。
私にとって2度目の体験である。

◎2016年2月26日・賢崇寺  (未完)

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今年は“事件から80年”という節目にあたるので、賢崇寺における法要に対して「ある種の予感」があったのだが・・・


13時、賢崇寺に着いた。


栗原家の墓。


2016年3月26日・慰霊像表敬訪問(未完)

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東京都ウオーキング協会の例会に参加。
代々木公園に集合して、20キロの自由歩行。

◎近況報告・のようなもの (未完)

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書店に立ち寄る度に、手にとって・・・

事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」 はじめに

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初めに改めて自己紹介をさせていただきます。
昭和10年に歩兵少尉に任官した、近衛歩兵第三聯隊の今泉義道の次男の今泉章利と申します。本当に久しぶりに投稿いたします。

ここ何年にもわたり、体調が悪く、何もできずにおりました。が、昨年の今頃、畏友であり、このブログの投稿者でもありました澁川明雄さんが急逝されました。明雄さんは澁川善助さンのことを克明に調べ、「澁川善助」という本を遺されました。 
何もしていないは私は、いよいよ自分の命の残りを感じ、体調に負けずに何かを残そうと思いました。
私は、実際に何も書いていないので、忸怩たる思いに駆られているのですが、末松建比古さまにもご無礼と思いながらも、拙文を投稿させていただきたく存じた次第です。

タイトルは「事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」といたしました。
勿論「事件関係者の息子」とは、昭和24年生まれのわたくし、今泉章利のことであります。

次回からの、お話は、10回程度、、水上源一さんの話をさせていただき、私の父、や、事件に関連して処罰された方たちのことを、私が直接接した人たちや関係者や肉親の方々から直接聞いた話などを通じて、書いてゆきたいと思います。
そして、これらが、近日中に、国立公文書館から公開される、東京地検の裁判資料などのはじめて公開される一次資料に当たって、なにがしかの参考になればと願っております。

次回は水上源一さんのことを書きたいと思っております。
(今泉章利)

2.水上源一さんのこと(その1)

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私の存じ上げているはじめの方は、水上源一さんのご令嬢の井上宣子さんです。
この方から、父上である水上さんのことを調べてほしいと以前依頼を受けました。2006年のことでした。
その時、私は57歳、まだ現役で、忙しい盛りでした。
それでもその年の9月、東京地検総務部記録係に、「刑事参考記録(二・二六事件裁判記録)閲覧申請」を行い、全資料の閲覧が認められ、10月から、仕事の合間を縫って、2009年3月まで、23回閲覧し、ノート5冊の筆写を行いました。
勿論、関係部分のみですが、今見ても、初めての事実、肉声が記録されていて、少し読み返しただけでも頭が熱くなります。

その後、私は、会社生活が延長になり、体力の減退とともに、お話しましたように何もできていません。
これからどのように、投稿しようか、考えておりますが、まずは、私のノートを振り返りながらお話したいと思います。

写真は、東京地検への申請書やノートの写真です。(今回は写真がうまく乗るといいのですが、、前回の水上源一さんの写真は大きすぎました。)

(今泉章利)

.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」 水上源一さんのこと(その3)

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今日2016年12月28日は、御用納めです。東京渋谷の慰霊像に来年のお正月用の飾付けと、関係者に挨拶をしてきました。
昔は、この日には、みんな慰霊像護持の会のメンバーが分担して、忘年会と称してお昼ご飯を頂くことになっていました。松は今泉義道(少尉)、水仙は柳下さん(中尉)、千両は池田俊彦(少尉)さん、飾り餅は北島弘(軍曹)さん、が分担だったように記憶しています。みんなとても楽しそうで、今でも声が聞こえるようですが、みんな鬼籍に入られました。今日はいつものように、仏心会の香田代表理事と二人で清掃し、花を手向け、香を上げ、父の行っていた通りに開経偈、般若心経、十句観音経、回向文をお唱えしました。写真は慰霊像護持の作業を終えて、写真を撮ろうと思ったところ、スマホの電池切れで写真が撮れなかったので、18時半ごろ、仕事の帰りに再び戻って撮った写真です。真っ暗で、よくとれておりませんが、飾り餅の横に、どなたかが缶コーヒーをあの後お供えくださっていました。私たちが去ったわずか数時間後のできことでしたが、慰霊像にご関心をよせ、お供え物までしていただいた方のお気持ちがしみいりました。とても冷たい風が吹いていましたが、私の心は満たされた気持ちでした。 (今日の写真は曲がったままです。いくらっても治りませんので鵜日を曲げてご覧ください)(すみません)

さて、裁判記録といってもその量は膨大なものです。全体はⅠからⅥに分けてあります。
Ⅰ訴訟記録 32巻 
(地検の閲覧用ファイル番号では、1~30.ファイルが30冊ということではなくて、だいたいそれぞれが2から4冊のファイルになっていて、全体のファイル冊数は90冊ぐらいあります。B4の横綴じです。B4一ページにB52枚がコピーされています)
Ⅱ行動隊記録 29巻 (地検のファイル番号は、31から53)(注:池田さんが一部を、ご自分の裁判を思い出しながら、原書房から1998年に出されたものがある)
Ⅲ不起訴(その1) 6巻 (地検のファイル番号は54~59)
Ⅳ不起訴(その2) 7巻 (地検のファイル番号は60~65)
Ⅴ裁判書 1巻 (地検のファイル番号は66)
(「さいばんがき」と読む。判決文のこと。死刑判決は100年保存の義務があるらしいが、軍法会議の扱いは小生にはよく理解していない。世に「裁判記録」と称して出版されて売れているのがこの部分が多い。東潮社版や朝日新聞社のものがある。最近では本文そのものの写真版が出版された。)
Ⅵ事件簿 1~4冊および被告人索引簿があります。(地検は 別冊1-4 という分け方をしている。)

参考:なお、ぜんぶ数えたわけではないが、66巻+別冊4巻=70巻のページ数は、超概算で、70巻x@3冊x@260px@2p=11万ページぐらいでないかと、今は思っています。
池田さんによれば、「この「裁判記録」は1988年(昭和63年)北博昭氏の学究によって東京地検に保存されていることが判明し、平成5年(1993年)2月、事件に対する学術研究者にその閲覧が許可されることになった」とあります。
池田さんは93年から95年まで東京地検に通われたとあります。

また、憲兵を中心とした記録を、早稲田ご出身の森伝(もり つとう)さんが所有されていたもので、1971年小学館より4冊で出版されています。正式な裁判記録ではありませんが、状況の把握しにくい時にあって、重要な資料でした。
今回の、裁判資料を、」将来研究する上において、比較資料として極めて重要と思います。国会図書館の県政資料室にあるとかで、いってみたいと思っております。
(今泉章利)

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