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Channel: ◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 
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◎「相澤中佐の片影」の伏字について

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「相沢三郎は何より情の人、行動の人であった。こうした相沢の人となりを綴った文集が二冊刊行されている」
「相澤中佐の片影」と「相沢中佐の遺影」が、鬼頭春樹著「実録相沢事件」に紹介されている。
鬼頭氏は「この二冊からは、部下思いで無骨な職業軍人、相沢三郎の人物像が浮かび上がる」として、遠藤美樹氏(戦死者の弟)が記した“片影”の一部を引用している。

この冊子には“其の1”から“其の22”までの「中佐の片影」が掲載されている。しかし“其の8=某氏(中佐の親友)”以下は“某氏”“某青年”“K生”“R生”“其の13=○○中尉”“○○大尉”“××大尉”“其の16=□□中尉”“△△少佐”“○中尉”“××少尉”“○○曹長”“△△中佐”“○○中佐談”と、伏字の連続になる。現在の感覚では「怪文書」のようだが、国際探訪通信社出版部から、定価金十銭で発行された出版物である。
昭和11年2月8日印刷、2月10日発行だから、伏字の理由と“二・二六事件”との関連は全くない。

(未完成)

◎書評の検索

◎相澤中佐が遺したこと

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鬼頭春樹著「実録相沢事件」には、菅原裕氏の名前が度々登場している。
画像参照。菅原裕著「相沢中佐事件の真相」は、その刊行当時に“末松太平”に献本されていた。
そして「実録相沢事件」は、刊行と同時に“末松太平の長男”が献本していただいた。
「相沢中佐事件の真相」と「実録相沢事件」との間に流れていった歳月を思うと、感無量なものがある。

「真相」も「実録」も、事件と直接には関係がない「その後の出来事」には触れていない。
相沢事件、二・二六事件、太平洋戦争、そして終戦前後の混乱期…。
長男・相沢正彦少年は(重要書類や物品や現金を納めた)大きなリュックを背負って、東京と仙台を何度も往復していたという。これは御本人から直接に伺ったはなしである。

田村重見編「大岸・末松・交友と遺文」には「その後の出来事」が記されている。入手困難な本なので、関連箇所を紹介しておきたい。

「敗戦の年の5月(田村氏は)軍需省航空兵器総局生産戦指導部に着任、阿佐ヶ谷の大岸頼好家に寄寓した」
「大岸家と軍需省生産戦指導部室は、五・一五事件、二・二六事件の生存者の梁山泊の様相があった。ここで(田村氏は)末松太平の知遇を得て、千葉市登戸の末松家を度々訪れた」
「敗戦処理が終了するや、大岸頼好、末松太平たちは、財団法人『在外戦災者協力会』を設立、在外同胞の帰国援助活動を展開した」
「仕事が一段落して解散後、(田村氏は)末松太平の配慮により、故相澤中佐の留守宅(中野区鷺宮)に居住を許され、少年飛行兵復員者やその友人達と生活を共にしつつ、都内の清掃工事や防空壕埋立て工事に従事した」

故相澤中佐の留守宅が、青年達の居住地になっていたこと。終戦直後の復興工事を“相澤中佐の遺したもの”が支えていたたと。相澤中佐事件の「その後の出来事」として、記憶に留めていただきたいと願う。

『在外戦災者協力会』については、最前線の責任者だった勝谷善次氏も「大岸・末松・交友と遺文」に報告書を載せている。
「田村先輩が東京に居られると聞いて上京し、鷺宮に行きました。鷺宮は故相澤中佐の遺族の住居でした。相澤未亡人及び家族が宮城県に疎開しておられたので、その家を梁山泊として、五・十五事件、二・二六事件の残党と、拓大の先輩方が居られました」
「鷺宮(相澤家の留守宅)には、末松太平、菅務、志村陸城、佐々木二郎の諸氏。近くの高円寺には、大岸頼好、明石寛二、柴田彦八の諸氏がおられました」

『在外戦災者協力会』の解散は、昭和21年3月の政令で(現金が封鎖されて)新円切替になったことが“主要因”であるらしい。援護に使うべき金が封鎖されては動きがとれない。その時点で『協力会』には300万円以上の金が残っていた。でも封鎖凍結されては、解散するしかなかったという。(末松)

◎相澤中佐の遺墨について

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「相澤中佐の遺墨が、ネットで取引されていた」
思わずムムムと唸ってしまう情報を「江翠様」に教えていただいた。感謝感謝である。
(註●詳しいことは「推奨・実録真相相沢事件」に寄せられたコメントをお読みいただきたい。)

画像参照。3本の筒には、相澤中佐と渋川善助氏の遺墨(の数々)が納められている。現在は「末松太平の居た家=千葉市登戸5丁目」に保管しているが、近い将来に“何らかの対策”に迫られることになるだろう。村中孝次氏たちの遺墨についても、同様の課題である。
相沢様、渋川様と、筒に記されているのは「末松敏子」の筆跡である。末松太平の遺品(大量の資料類)を、どのように扱えば良いのか判らずに、整理だけはしておこうという気持が筆跡から窺われる。



相澤中佐の遺墨に関連して、余談を少々。
鬼頭春樹著「実録相沢事件」には“不思議な印象”を与える箇所がある。先ずは233頁。
「孫の志村孚城は、《書を見せてほしい》との申し出に、《尊王絶対は好きでありませんね》と笑って答えた。《モダンボーイ》には似つかわしくないと・・・」
志村氏は「笑って見せた」のか、それとも「笑って見せなかった」のか。気になるところである。

余談ついでに記せば、110頁にも“不思議な印象”を与える箇所がある。
「こう回想するのは志村孚城(現在72)。相沢の長女、のぶ子(15)の長男で、幼少から麻布賢崇寺での法要に手を引かれて出席する」
目次の次頁に「登場人物の年齢は、特に断りがない限り、昭和10年の相沢事件発生時の満年齢で記載した」と書かれてはいるが、それでも「のぶ子(15)の長男」と書かれると、一瞬「15歳の母?」と驚いてしまう。
のぶ子さんが志村陸城中尉と結婚したのは、かなり先のことである。そして「幼少から法要に手を引かれて」は、さらに先の話である。
「志村は戦後、平和になった時代に鷺沼の自宅でよね子未亡人を囲んで、ショパン『幻想即興曲』のレコードを蓄音機で聞いた時の甘美な光景をはっきりと覚えている」
この「鷺沼の自宅」という記述も“不思議な印象”のひとつである。戸惑いを招く。宮城県に疎開していた“相澤ご一家”の帰京後のエピソードだが、鷺沼(相澤邸)には「志村氏ご一家」も同居したのだろうか。
前回に「相澤家の留守宅=梁山泊」を紹介している私にとって、これもまた、気になることである。(末松)

◎仮題 「野田雅子を歩く」

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(未完成=完成後は別のタイトルになります)

意味不明のタイトルとお思いでしょうが、それなりの「起承転結」で完結する筈です。
気長にお待ち下さい。



現在73歳。ひと雨ごとに「保管史料を処分する日」が近づいてくる。最近流行りの「断捨離」という言葉に左右されてはいないが、

蔵書の類8を増やしたくないから、図書館で読むように心がけている。

画像参照。

(続きます)



◎明日は東京都議会議員選挙です

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板橋区議の山田クンに頼まれて、安倍首相の街頭演説を撮りにいった。単なる地元の付き合いである。山田区議は同じマンションの住民なのだ。
山田区議の役割は、司会進行役。安倍サンのすぐ近くに居るのだが、二人の間に「立候補者」が写っているので(投票日前には)掲載できない。

「報道関係の方ですか?」「いえ、違います」「では、この場所を退去してください」
撮影中に「美人SP」に何度も咎められた。ボロシャツ姿の73歳老人に「報道関係?」と訊ねるところが滑稽である。しかし、撮影場所を変えても“教育的指導?”の対象になってしまう。怪しい気配を漂わせているのだろうか。



自民党の街頭演説を聞いても、感銘を受けることはない。山田クンには悪いが、明日の投票日は「他の党」に投票するつもりでいる。(末松)

◎「末松太平」保管史料・整理開始

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久しぶりに墓参に行く。実は、今年になって初めての墓参である。
千葉市若葉区の平和公園(市営墓地)は、特養老人施設「清和園=母が世話になっていた」に隣接している。だから、毎週一度の「老母視察」のついでに、時折は「末松太平の墓」を訪ねていたものである。
9月になれば、末松敏子の三回忌。末松太平の場合と同様に「三回忌まで」はマジメに執り行う所存である。末松家に菩提寺はない。葬儀で御縁のできた「弘教寺=千葉県市原市」に予約の電話を入れた。周りの都合を確認せずに、法要の日取りを決めてしまうのが“私流”である。坊守様(御住職の奥様)に「参列者は何人ぐらいですか」と訊かれて「4人から10人程度です」と答えた。愚息夫妻は海外勤務中で、当初から員数外である。



「末松太平の家」に行く。妹に逢うのも今年になって初めてである。今年3月に「邦刀遺文=對馬中尉の遺文集」に必要があって訪れた時には、妹が留守だったのである。余談だが、妹は地元の民生委員(正式名称は児童なんとかの語句もつく)を受諾していて、あれこれと忙しいのだ。

「末松太平の家」は 近々に土地売却のため、取り壊される宿命にある。手付かずの状態で大量に保管されている「末松太平関連の史料」も、処分するしかない。
誤認を避けるために、「年表・末松太平」の「昭和19年頃」の部分を再掲しておく。
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1944年●昭和19年頃(18年かもしれない)。末松太平・38才〜39才。私・3才〜4才。
(東京都杉並区から)千葉市登戸5丁目に転居。転居先は、義父・久保三郎の持ち家である。
末松太平は結局、亡くなるまで約50年間、この家に住み続けることになる。
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やがて、久保三郎(私の祖父)が逝去し、久保なつ(私の祖母)も逝去した。遺産の一部(土地家屋2件)は「子供4人の名義」で相続された。時が流れ、子供4人は(末松敏子を最後に)全員が逝去。相続人=久保夫妻の孫(8人)という状況になった。以下省略。今回の「土地売却&取壊し」の理由は、そういうことである。

妹の協力を得て、保管史料の整理に着手した。史料でない品々は、その場で廃棄処分にしていったが、なにしろ対象物が多すぎる。膨大な量の書籍類は(オソロシイので)今回は無視。とりあえず「ダンボール4個分」の史料を、東京都板橋区の我家に運んだ。
最終的には「ダンボール数十個分」の書籍史料類を、我家に移すことになるだろう。大胆に選別して廃棄処分しない限り「ダンボール百個分」を超える可能性もある。私の部屋に収まる筈がない。既に我家には、私&家人所有の書籍資料類が「1間幅×7段の書棚」10基分に、ギッシリと詰まっているのだ。

画像参照。本日運んだのは「日記類」と「手紙類」がメインである。残存史料全体からみれば“ほんの一部”に過ぎないが、これだけの中にも「初公開の情報」が多々含まれていそうな気がする。
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●1966年7月12日。
『2・26法要。午後6時 三島由紀夫氏を訪ねる。「新潮」編集長寺田博、婦人公論編集長笹原金次郎、編集部次長菅原国隆、村松剛、大映プロデューサー藤井浩明、「文藝」伊沢甲子麿の諸氏同席。』
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これは、一例だが、末松太平の古い日記帳によって、末松建比古編「年表・末松太平」に欠落している「情報」が判明するのが嬉しい。(末松)

◎史料整理シリーズ?=1968年の日記

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前回(1966年の日記)に続き、1968年の日記の一部を初公開する。末松太平は当時60才〜61才。私は25才〜26才で4月に(労働組合結成で会社に睨まれ)福岡支社に飛ばされた年である。
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●1968年2月26日(月)
『2・26 33回忌法要。式次第に「日本青年の歌」を歌うことになっていた。三上卓は自作の歌を歌われることを好まなかった。仏心会のやることは仏心会のペースで行けと、説得した。三上は、歌うより行え、ということである。三上は、そのあとで、ふところから俳句19首を我に渡す。公開は好まぬ。仏心会にやってくれという』
●1968年2月27日(火)
『竹内俊吉が俳句をつくれと「春燈」を送ってきた。』
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三上卓氏が「自作の歌を歌われることを好まなかった」と初めて知った。
「二・二六事件 三十三回忌 十九句 三上卓」
三上氏に渡された“俳句19首”は、日記に転載されている。三上氏の「十九句」を「十九首」と記したのは、末松太平の単純ミスだろう。全十九首を皆様に御披露したいところだが、三上氏ご自身が「公開は好まぬ」と伝えている以上、記すわけにはいかない。
竹内俊吉氏の名前は、末松太平著「私の昭和史」に度々登場する。奥羽日報の記者だった竹内氏は、この時点では青森県知事になっていると思う。



画像参照。紹介するタイミングを逸していたのだが、2012年5月に“江面弘也著『「青年日本の歌」をうたう者・五・一五事件、三上卓海軍中尉の生涯』中央公論新社刊”という力作が書店に登場していた。惹句には「縁者にあたる著者が8年に及ぶ取材を経て、書きおろす」と記されている。
当然ながら、私は取材対象ではない。それでも「末松太平」は登場していた。三上卓氏の晩年を描いた部分で「末松太平に送った最後の年賀状」の文面が紹介されている。著者が“年賀状の実物”を手にしたわけではない。参考文献からの引用である。ネタ元=雑誌「新勢力・三上卓追悼号」1972年2月15日発行。末松太平は「水より淡く」という追悼文を載せている。(末松)

◎史料整理シリーズ?=続・1968年の日記

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承前。当然のことだが「2月26日」の次は「7月12日」に注目する。期待に反して(4月12日〜7月14日の期間は)何も記されていない。賢崇寺法要に参列したことは、次の記述(慰労会参加)から推察できるのだが。
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●1968年7月18日(木)
『銀座“甚兵衛”で河野司氏慰労会。午後6時から。2時間位で閉会。ぶらりと大雅堂という書店に入ったら、今東光が入ってきた。もう早速に議員バッジをつけている。生臭坊主、うれしいのだなと思う。バカ気たことだ。』
●1968年9月4日(水)
『「ゲバラ日記」を買った。朝日新聞とみすず書房のが、並べて店頭にあった。みすずの方を買った。私は、ゲバラがすきである。』
●1968年10月24日(木)
『メキシコオリンピック体操女子個人優勝表彰式で、チェコのチャスラフスカが、チェコの国旗があがり、チェコの国歌が奏せられるのを聞きながら、こらえた涙が落ちるのがテレビ画面にも、はっきり見とれた。ソ連に抗議して追放された愛国者の涙である。美女チャスラフスカも美しい、涙も美しい。
三島由紀夫さんから、三島さん自作のミュージカル公演の招待状を送ってきた。』
●1968年10月27日(日)
『三島由紀夫作のバレエ「ミランダ」を日生劇場でみる。三島市の招待である。終わって、霞ヶ関ビル35階のレストランで夕食の御馳走になる。三島氏御両親、伊沢氏も一緒。三島氏の両親との仲むつまじさが微笑ましかった。
「ミランダ」は、明治百年記念芸術祭特別公演とのこと。バレエとしては日本だけのことだが画期的な催しという。が、バレエをみたのは初めてだから観賞の眼はない。むしろバレエはみず、三島氏の好意をみたというべきだろう。』
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先日、ウオーキング途中に立寄った「紀伊国屋書店・浦和パルコ店」に、ムック「別冊太陽」がズラリと並べられていた。
「三島由紀夫」を手にとり目次をチェック。三島由紀夫氏は“対談の名手”でもあって、300人以上(正確な数字をメモしたのだが)と対談したという。
300人以上の名前が、年度別にリストアップされている。勿論「末松太平」も載っている。対談「三島由紀夫×末松太平」が掲載されたのは、学燈社「伝統と現代」1968年9月号。対談のタイトルは「軍隊を語る」である。(末松)

◎史料整理シリーズ?=読めなかった(と思われる)手紙

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東京は、4日連続の猛暑日である。こういう日は、古い日記帳を手繰るよりも、爽やかな彩りの封筒を開く方が楽しい。
画像参照。1992年9月28日付の消印のある封書は「20歳を幾つか過ぎた女性」から、末松太平(当時86歳)宛に届いたものである。
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『拝啓 秋が駆け足でやって参りまして肌寒いながらも心地よい日々が続いておりなすが、そんな夜に不躾ながらも御面識なく御手紙を差し上げることを御許し下さい。
この夏、末松さんの「私の昭和史」を拝読させて頂きました。それで勝手ながら、仏心会の河野さんから御住所を御聞きし、こうして御手紙を書かせて頂いています。
以前より「私の昭和史」の存在は知っておりましたが、初版が昭和30年代なのでもう手に入らないだろうと勝手に解釈してましたので、拝読するのが遅くなってしまいました。
「私の昭和史」は淡々とした文章の中で、常に事実を公平に見ていらっしゃるので真実がより真実を語っていると思われました。また2・26事件に話が集中しておりませんでしたので、当時の幅広い勉強にもさせて頂きました。満州の話は特に新鮮でした。満州という国は とかく戦後ではタブーですので余り深く知る事もありませんでしたので、改めて満州という国の意義を御聞きしたいくらいです。
それから 11月20日事件に関する記述ですが、「私の昭和史」の中での辻大尉への抗議文は今後、様々な資料を読む上での指針になりました。辻大尉はやはり自ら進んであの事件を企画したのでしょうか。候補生の為思ってとよく本にありますが、策に乗せられた武藤候補生の行く末など考えていたのでしょうか。本当に許し難いと思います。
また、事件関係者の方の横顔もこの本で見たような気がします。栗原中尉が十月事件の頃は影が薄かったというのも意外でした。渋川さんに関する事は余り知りませんでしたのでその魅力に驚き、もう御会いする事が出来ないのは至極残念でたまりません。
2・26事件の蹶起時の地方連隊の動きも参考になりました。よく首都での話は本などで知ることは出来るのですが、地方の話は余り分りませんでした。地方の民間の方はどうなのでしょうか。やはり何も知らずじまいなのでしょうか。当時九州にいた祖父に聞いても、新聞発表以外の事は知らない様ですし、末松さんのいらっしゃった東北でも民間は何も知らないんでしょうか。私は他の誰よりも民間の方々に事件の意義や真実を知ってもらいたかったと思いますし、それは今の世でもそう思います。映画等で彼らの行動のみを美しいと賛美していますが、その賛美は何か事件から遠く離れた事の様で何か寂しい気がします。無論、あの行動は誰でもとれるものではありませんが、もっと奥に横たわるものの方がずっと大切な気がします。末松さんの文章力の素晴らしさで 平成の世に紐解いた私ですが、昭和の初めがつい昨日の事の様に思え、当時の青年将校の方々の奥に横たわっていたものに触れた様な気がします。
私の様な20歳を幾つか過ぎた者が、好き勝手に書き連ね、本当に心苦しい限りです。伺いました所、末松さんの知名度を利用して近付いて勝手な事をされる方もいらっしゃるそうですが、そのつもりは全くありません。ここ数年、2月と7月には賢崇寺に伺っておりますが、お目にかかれない事を残念に思ってます。
もし、機会がありましたら、お話を承りたいと思っております。勝手な事ばかり申し上げて申し訳ありません。私はまだまだ勉強不足ですが、これからも少しづつ勉強して行こうと思います。
それから蛇足ですが、「私の昭和史」の中での末松大尉を見習って勤務態度も参考にさせて頂いております。
これから徐々に肌冷くなって行きますが、どうぞ御躰を御自愛下さい。面識もなく御手紙を差し上げ失礼をしたこともお許し下さい。敬具。(氏名・住所・電話番号)』
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あえて、消印の郵便局名を伏せて文面を紹介したが、この封書は「防衛庁内」から送られている。若き女性自衛官からの手紙だったと知れば、皆様も「末松大尉を見習って勤務態度も」という表現が、微笑ましく感じるだろう。
この手紙を末松太平が「読めなかった」と思うのは、半盲目状態の末松太平には“細かい文字は読めない”こともあるが、それよりも「逝去=1993年1月17日」間際という点からの推察である。1992年7月25日に開催された「米寿を祝う会」の写真(山田恵久氏撮影)が手元にあるが、末松太平の衰弱ぶりは凄まじい。7月で“この状態”では、9月に届いた手紙が読める筈はない。因みに「米寿を祝う会」に末松夫妻を招いたのは、相澤正彦氏、田々宮英太郎氏、山口富永氏、今澤栄三郎氏、山田恵久氏、今泉章利氏の6氏である。晩年の人間関係を伝える資料として御名前を記しておく。



画像参照。家人が親しくしている御近所のご婦人から、堀越二郎・奥宮正武著「零戦」朝日ソノラマ文庫版を預かってきた。私に読んで欲しいとのことである。この本は、先ず昭和27年に刊行され、昭和50年に新装版が刊行されていて、文庫版(拝借した本)の初版発行は昭和57年2月になっている。文庫版の帯封には「幻の名著を再び文庫版で…!」と記されている。
“宮崎駿監督作品「風立ちぬ」スタジオジブリ作品=7月20日(土)全国ロードショー”の影響で、堀越二郎氏(零戦の設計者=映画の主人公)が脚光を浴びている。そして、堀越二郎氏(明治36年〜昭和57年)の御長男は、サンシティ(私が在住する大規模マンション群)にお住いという。御近所のご婦人に“日本テレビ「笑ってこらえて」7月10日放送を見て”と連絡された。番組は映画「風立ちぬ」の特集で、堀越氏の御長男も登場していた。
私は「戦記物」の類には全く興味がないのだが、御近所付合いのマナーとして「零戦」を読まないわけにはいかないだろう。逆に言えば、家人が親しい方々に謹呈した中公文庫「私の昭和史」も、同じようなことだっただろうと思う。(末松)


◎史料整理シリーズ?=他人の目には「燃えるゴミ」

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昨日紹介した「若い女性からの手紙」の後日談を記しておく。



(自分を追い込むために、画像を先に載せております)

◎「理想日本」という雑誌 (その1)

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「年表・末松太平」は、末松太平の死去直後に「私家版」として急遽仕上げた記録である。記録として不完全であるが個人的な史料としては、それなりに役立っていた。しかし、田村重見編「大岸頼好・末松太平・交友と遺文」に全文が掲載され、中公文庫版「私の昭和史」の解説にも“年表の存在”が記されてしまうと、私家版であっても“史料としての責任のようなもの”が生じてしまう。
現在進行中の「末松太平の遺品整理=処分」の際に対面(?)した廃棄対象物を相手に、私なりの勝手な選択で「年表・末松太平」の“増補改訂作業”を進めてみたいと思う。勝手な選択であり、偶然対面した順番であるから、時系列的な増補改訂にならないことを、予めお断りしておく。

「年表・末松太平」の、1941年あたりを開くと、『昭和16年(1941年)12月8日・日米開戦』という記述に続いて『昭和17年頃・総合雑誌「理想日本」。主宰は菅波三郎、末松太平』と記されている。しかし、末松太平の死去直後に急遽仕上げた年表だから、このあたりについは史料不足で“詳しいこと”は判らないままであった。勿論その時点では、総合雑誌「理想日本」の実物も目にしていなかった。
画像参照。9月7日、亡母(末松太平の妻)の三回忌法要で“千葉市登戸5丁目”を訪れた際に、妹から「ボロボロになった雑誌」を渡された。画像の表紙は「第2巻・第4号」であるが、中身は分解されて、末松太平による「抜すい」として(数冊分が)纏められている。それでも私にとっては嬉しい対面であった。
菅波三郎氏(大尉・禁錮5年)と末松太平(大尉・禁錮4年)が、仮釈放された後、第二次世界大戦の世相にあって何をしていたのか、昭和史を研究する方には多少は参考になるだろうと思う。



「理想日本」創刊号(昭和17年3月)に掲げられている「緒戦=巻頭言」を紹介する。
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緒戦が如何に重要であるかは、今更呶々するまでもなく、大東亜戦争劈頭に於いて感銘せしまられてゐる。
けれども、それが単なる爾後の全戦局への影響としてのみみられるとき、所詮長期戦に於いては、その価値が稀薄軽減されるのであって、時としては「先勝は糞勝」とすらなりかねないのである。
緒戦は、爾後の日々を是緒戦として戦ふとき緒戦としての真価を発揮するのであり、全戦局への決定的影響ともなって、「長期戦」と期間を延長することによって、その間に立直りの余裕を持たんとする、米英の執拗老獪なる企図に対しても、乗ずるに一分の隙も与えぬこととなるのである。
永遠を今に、今を初に、百年の長計を刻々の事業に緊張せしめて、息を抜くひまもなく、不断の緒戦を戦ってこそ、今次未曾有の緒戦の大捷をして、益々光華あらしめるのであり、又初を終となし得るのである。
緒戦は一国に於いて重要である故に、又個々人に就いても重要である。一国がこの「もとへ」の利かぬ緒戦一撃に傾倒して、計書、訓練を精到にするとき、個々人はただこの日を待って、この一瞬の死の為に「戦争の方が楽」な猛訓練に精進するのである。
それは又、徴されたると、未だ徴されざるとに分かたぬのである。今更「一億皆兵」「総力戦」と云ふ迄もなく、固より国民皆兵の国柄なのであり、それが本質的にそうであらねばならぬだけでなく、現実的にも厳しく差し迫られてゐるのであるから。
未だ徴されぬものの訓練とは、特に青少年への期待である。それは軍に於ける、少年航空兵、少年戦車兵等の存在が示唆するが如く、学校に於いて、産業界に於いて考慮が払われねばならぬことである。
「好人不當兵」は今は支那に於いてより、寧ろアメリカに請はるべきであり、ルーズベルトの机上プラーンは、兵器のそれより兵員の増強に頭痛があるのであるが、それすら学生の国防訓練に従来周到であると聞く。
アメリカへの比較はただ「彼を知り、己を知る」の自戒を云ったのみであって、勿論かかる相対的見地にとどまることを云ったのではない。青少年の訓練が、徒に系統の多岐に紛糾する「時局への認認」程度での補備、補足では、アメリカにすら及ばぬと云ふのである。不断に緒戦を戦ふ決意に本づく、一元的訓練体制の刷新が断行されなければならぬのである。それは単なる時局への認識ではなく、源遠長流の伝統の護持伸張である。
戦ってこそはじめて価値も知られ、感謝もされるけれども、戦ふ迄の訓練は、心なきものには無用視され、冷笑さへもされる底のものである。けれども緒戦は、一時的感情の昂奮によって戦はれるのでなく、平戦爾時を通じての不断の訓練が、時にあひて顕現するものなのである。可憐なる一輪の花すら、一年の霜雪を経て咲くのである。
緒戦を真に緒戦たらしめることは、絶えず緒戦を戦ふことであり、それは不断の訓練にまつべきである。それが為青少年訓練体制の刷新は緊急の要務となることをここに主張するのである。
それは又御稜威の下、大東亜共栄を確立する基底である。      (巻頭言)
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白状すれば、転記しながら、途中で後悔しはじめた。同じ主張を繰り返し繰り返し述べているからである。しかし、当時の「世相」を実感できない立場で、あれこれ批評を加えることはできない。菅波三郎氏と末松太平が(二・二六事件の獄中生活を経て)開戦直後に「こんなことを考えていたのだな」と思うだけである。
原文は「難しい漢字」の連続である。ひとつひとつ「正確な漢字」を検索することは、諸事情あって諦めた。諸事情の一例をあげれば、痛みの著しい「理想日本」のページを開いて、PCに書き写しているだけで、風化した「理想日本」の紙面や綴目部分が次第に破れてくるのである。(末松)

◎「理想日本」という雑誌 (その2)

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話の流れとして「年表・末松太平」1940年(昭和15年)の部分を再掲しておく。
●4月17日・長男建比古誕生(東京都杉並区天沼)。
●「富士飛行機・青年学校=同年4月開校」に関与する。
末松太平が仮釈放されたのは、1939年4月のことで、創立間もない「富士飛行機」という会社(東京・鎌田)に青年学校を作ることを頼まれている。多分、若者集めのために「青森での顔」を期待されたのだと思われる。無事に開校してしばらくの間、末松太平は“青森から来た1期生”を指導していたが、やがて菅波三郎氏が仮釈放されたので校長に推薦し、自分は満州に渡っている。菅波三郎大尉(歩兵第四十五連隊)と末松太平大尉(歩兵第五連隊)の“同志”を実感させる、私の好きなエピソードである。
そして、1941年「日米開戦」を経て、1942年に菅波・末松の“同志”は「理想日本」を創刊することになる。



『謹みて 詔書奉戴一周年を記念し奉る。』
雑誌「理想日本」第2号に掲げられた“巻頭言”である。
堂々5ページにわたる力作で(当時の世相を理解するためにも)全文を転載したいのだが、画像だけでご容赦いただきたい。
画像から推察できるように、紙質の劣化が著しい。ページを開いているだけで、ボロボロと破れてくるのである。

『東條首相は、さきごろの生産増強官民懇談会の劈頭の挨拶において「国民の一部の中には、大東亜戦争は緒戦の戦果により一段落を告げ、今後は輝かしき建設戦が残るだけであるといふ、全く安易な楽観的気分となって、緊張を欠くものなきにしもあらずと認められるのであるが、これは思はざるも甚だしきものである」と述べている。開戦後やっと一年を経て、正にその記念日を迎へんとしているときであるのに、話がかういうことにまで及ばなければならなくなってゐるのが、目下の実情といふべきであろうか。』以下省略。

そういうわけで、本文の転載は断念するしかないが、タイトルだけでも紹介していきたいと思う。(末松)

◎「理想日本」という雑誌 (その3)

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雑誌「理想日本」昭和17年9月号。
巻頭言「満州事変十一周年」の冒頭部分を、少しだけ紹介しておく。
原本の破損崩壊を少しでも遅らせるために、転載作業は慎むしかない。ほんの一部分の紹介だが、ご容赦いただきたい。

『昭和六年夏、張学良隷下の一兵営下士官室の小黒板に、
   今日ハ火曜日ダ
   八月十五日ニナッタラ
   小日本鬼 射撃
と落書してあった。
日本軍に占領されたときまで、これは消されずに残ってゐた。
同じ年、旅長王以哲は、九月十九日午前二時緊急集合、と予め命令しておいた。
満州事変の発端は、いふまでもなく九月十八日午後十時三十分の銃声である。』
以下省略。
因みに、題名上のカット(イラスト)も、末松太平が描いている。

末松太平の「満州出征」は、昭和6年11月(1932年=当時26歳)のことである。
出征の際に、西田税氏から200円の餞別を戴き、東京駅では、井上日召氏、四元義隆氏、渋川善助氏の見送りを受けている。
昭和7年の「血盟団事件」と「五・一五事件」を、末松太平中尉は満州の地で知ることになる。
昭和9年(1934年)に満州から凱旋帰国。帰国途中に、在満中の菅波三郎中尉と新京で逢っている。(末松)

◎「理想日本」という雑誌 (その4)

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雑誌「理想日本」昭和18年1月号。
先例と同様に、ほんの一部分だけの紹介である。一部分だけでは、文意が正しく伝わらない(逆の意味にとられる危険もある)とは思うが、原本保護を優先するしかない。

「年頭感あり」
年頭にあたりて先ず、とことはに目出度き大御代の、弥栄をことほぎまつる。

『必勝の信念については、現行兵書に
「必勝の信念は主として軍の光輝ある歴史に根源し周到なる訓練を以って之を培養し卓越せる指揮統帥を以って之を充実す 赫赫たる伝統を有する国軍は愈々忠君愛国の精神を低嘱し益々訓練の精熱を笠ね戦闘惨烈の極所に至るも上下愛倚し毅然として必勝の確信を持せざるべからず」
と明示されている。
これはもとより軍のことについていはれてゐるのであるが、それのみのこととは限らず、特に銃前と銃後とをわかたぬ今日においては、それはまた、真意を弁えて一般にも適用する言葉にあらためてみれば、そのまま一般国民にも通用することである。』
以下省略。



平成25年、現在進行形の事柄を少々。

御近所の奥様に「読売新聞=2013年9月7日号」を届けていただいた。毎週土曜日掲載の「昭和時代」シリーズの「第3部 戦前・戦中期(1926〜44年)」で、今回は「二・二六事件(上)」が紹介されている。
我家は「朝日新聞」だから、奥様のご好意がなければ知らないままで終わっていた。感謝感謝である。
『1936(昭和11)年2月26日、陸軍の青年将校らが部隊を率いて重臣、軍首脳らを襲撃・殺傷し、首都中心部を占拠する。「二・二六事件」である。皇道派青年将校を武力決起にはしらせた底流には、政治の腐敗や経済の混迷、陸軍内部の熾烈な派閥抗争、国家革新運動などが渦巻いていた。(文中敬称略)』
主な参考文献として挙げられているのは、筒井清忠、北博昭、大蔵栄一、高橋正衛、高宮太平、川田稔、永田鉄山刊行会、森靖夫、安倍源基、松本健一、末松太平、渡辺京二、橋川文三、北一輝、大塚健洋による著作物である。H藤氏とH坂氏の名前はない。
『事件に関わった末松太平大尉のように「大同団結がどうの、改革案がどうのと、四の五のしちめんどくさいことにかかずらわっていてもしようがあるまい」という将校もいた』
「相澤事件」から「二・二六事件」までを(歴史に詳しくない一般の読者に)判りやすく説明するために、末松太平が「こういう役割=軽率な人物像」を担わされたことには、苦笑するしかない。

山口富永氏(二・二六事件研究家)から「国民新聞=平成25年9月25日号」を送っていただいた。
山口氏の論文「日本の革命を狙ったコミンテルンの謀略」が掲載されている。
『(前略)統制派軍人らによって、彼らに反対する軍人たちは「皇道派」と命名された。こう命名された軍人たちは、本来戦争不拡大方針を堅持する者たちだった。統制派軍人にとって、戦争不拡大方針とは侮蔑の対象たるものであり、従って「皇道派」とは揶揄の意味を含めての命名だった。(後略)』
私には、この部分(広西元信著「資本論の誤訳」からの引用という)が強く印象に残った。私は「二・二六事件を統制派対皇道派という構図で語ろうとするヤカラ」に怒りを抱いている。そういう意味で「統制派軍人の意図を秘匿するために、統制派対皇道派の分派闘争という次元を案出した」という文意に興味を引かれたわけである。(末松)

◎「理想日本」という雑誌 (その5)

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雑誌「理想日本」昭和18年2月号。
巻頭言「創刊一周年」

『すでに言葉の時期でなく、実行の時期であるとは、今日屢ゝきく言葉である。言行一致とのみならず、不言実行とまでいはれ、いふに易い言葉より、行ふに難い実行が、尊重されることは、今にはじめぬことながら、それが特に今日強調される所以は、口先だけでは、いくさはもとより、一塊の石炭も掘れず、一握の木炭も焼けないからである。
とはいへ、他方ではまた言葉の重要性が強調されてもゐる。一方で言葉の時期でないことを強調したものが、時と處とをかへて、文士、評論家の会同すところなどにのぞんでは、思想戦における言葉の位置を、あるときは勢いのあまるところ、いくさより、増産より、以上に評価してゐるのが実情である。』

巻頭言「創刊一周年」は、(一)から(四)で構成されていて、上に転記したのは(一)の部分である。ここまででも「屢」や「處」の転記に苦労した。作業の間、雑誌のページを開いているから、脆くなった紙質の破損が進んでしまう。
ということで(二)以降の転記は断念。
この号には、斎藤瀏氏(予備役少将・禁錮5年)の「皇道・國体・肇國の精神を貫く思想」が掲載されている。



ここで視点を変えて、遺品廃棄処分の実例を記録しておきたい。
画像参照。大型封筒の表書きは、亡母(末松太平夫人)の筆跡である。
「遺品の中に雑誌とまとめてあった伊勢新聞の切ぬき。
昭和日本外史 2・26の軍部の事らしいが番号が不足して揃わず
平成五年二月八日封」
切抜きは「伊勢新聞」掲載の「昭和日本外史・昭和青年日本の詩=編著者 大木○○之介」で、38回分がクリップで留めてある。史料と云うには不完全すぎるし、原版は「伊勢新聞」に重要保管されている筈である。そういう判断で、この“不揃いの切抜き”は“燃えるゴミ”として廃棄することにした。

「年表・末松太平」としては、平成元年に「末松太平(83歳)が熱心に切抜きしていた連載記事」の存在は記録に留めておきたいと思う。38枚の切抜きから、数枚を選んで、タイトルを紹介しておく。
●連載263回「第三章 昭和維新(223)十月事件」平成元年(1989年)8月11日掲載」
●連載295回「第三章 昭和維新(255)天皇機関説の周辺」
●連載314回「第三章 昭和維新(274)天皇機関説」1989年10月2日掲載」
●連載362回「第三章 昭和維新(322)神兵隊事件」1990年7月11日掲載」

1989年11月19日号(連載361回=天皇機関説・完了)に「昭和日本外史休載のお断り」が載っている。
『(前略)又しても救急車で運ばれ入院手術を受けねばならぬ破目になり愛読者の皆様に申し訳なく存知ます。神兵隊事件と相沢中佐、その後士官学校事件、二・二六事件、これが迷宮入りになっている。真相が真実が伝わっていない。だから私の見聞した知悉、体験した真相、これだけは残して置きたい。置かねば日本の歴史が誤った方向に行くと四十五年前の残稿を整理しつつ掲載し続けて来たが、これ以上は今の私の体力では無理であるので、病が癒えるまで休ませて下さい。二ヶ月も休養すれば回復します。そして又頑張ります。そうでないと死んでいった奴等が可愛想だ。埋もれて忘れられてしまう。今日的誤った世界観と国家観を以ってすれば不思議な位であろうがあの当時か純粋に至誠以って「国家と民族のため我魁けたらん」ことを何にも勝る栄與と考えて死んで行ったのである。(中略)死んでいった君達の遺志が堂々顕彰出来る国家に社会の実現のため私は奮闘する。せめて心してくれと祈る。昭和日本外史 編著者 小林正雄』
編著者の大木氏は「伊勢新聞の社主」ご自身であった。連載361回=1989年11月19日、連載362回=1990年7月11日、約8ヶ月の休載を挟んでの復活となった。

『二・二六事件の参加者はまだ健在である。その健在者の前で虚実が横行している。戦争を知らぬ者が戦争を語り、軍隊を知らぬ者が軍隊を語る。この位滑稽なことはないのだが面白おかしく書かれた売文は、人の視聴を集め易く虚実の構成に効を奏するものであるが、歴史を歪めていくことは正しく恐ろしいことである。私は兵から登った六年間の軍隊を知っている。征野千里激烈な戦闘に銃剣を着けて突入した者である。(中略)こうした人間が言う戦争を全く知らない、軍隊を知らぬ、いわんや武士道の何たるかも聞くこともなく知ることもない、ましてや罪人を作ることが仕事である検察官の記録等に真実が見いだせる理がない。故に虚構を逞しくする売文の類であるから滑稽であると批判するのである。再び言うことは二・二六事件の当事者は、行動した人は生きているのである。生き証人がいるのである。それらの人々の前でよくもかかる虚偽の作文が発表出来るものであると、その人間性を疑い、エコノミックアニマルに堕した恥知らずの動物であると視てはいるが強く抗議を行う。それとともに公共機関であるNHKが真実の発言を抑えて、封じ込み虚像を写し出す、においておや何をか言わんやである。このようにして虚実の歴史が流れ出すのであることを知って欲しい。(後略)』
小林正雄氏には、末松太平の葬儀(1993年)でお目にかかっている。(末松)

◎「理想日本」という雑誌 (その6)

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雑誌「理想日本」昭和18年4月号。
巻頭言のタイトルは「存在と意識」で『人間の意識がその存在を決定するのではなくして、逆に人間の社会的存在がその意識を決定するのである。』という書き出しで始まっている。以下省略。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
実は、もう暫く雑誌「理想日本」の紹介を続けていく予定であったが、気分が変って一旦休止。別の話題に移ることにする。
雑誌「理想日本」に関して、匿名の方から5通(実際は6通だが同一文章があった)連続のコメントで御教示をいただいた。但し、コメント内容は「非公開で」ということである。実は私自身、ボロボロになった古雑誌を紹介することにウンザリしていたので、この機に乗じて(?)別の話題に移ることにした。匿名氏(末松太平と交流のあった方らしい)に感謝感謝である。
御教示うけたなかに「ある著書」に触れた部分があって「此の度の復刻に際しては、底本に、故末松太平氏所持本を使用した。以前、登戸のお宅に伺った折り、著者が賜ったものである」と記されていた。末松太平は、所有する資料類を「公共性」を優先して、求められるままに提供していた。当ブログ内に何度か記したことだが、様々な場で流用されている「西田税氏と渋川善助氏の肖像写真」も、公共性を優先して(結婚式の集合写真を)提供したものである。
入手した資料類を私蔵してはならない。そう考えると「最後の戦い=NHK特集への批判」の根幹に「匂坂資料が“身売り”されたこと」に対する怒りがあったことが理解できると思う。



前回に続いて、廃棄処分作業(末松太平遺品)の一例を紹介しておく。
ボロボロの小冊子は、K・マルクス著「賃金労働と資本」東京ナウカ社版。本文48ページ。昭和21年3月25日発行。定価=弐円五拾銭。用紙が変色していて殆ど読めない。迷うことなく“燃えるゴミ”として処分である。
読み取り不可能なものが何故保存されていたのか。理由は“末松太平が失明同様だったから”である。本人が選別しない限り、周囲(家族)は処分できなかったのだと思う。(末松)

◎史料整理=入獄から出獄までの日々 (1)

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画像は「大阪朝日新聞」昭和12年1月19日の“第二号外”である。ヘッドラインにある「七将校」は、満井中佐、菅波大尉、大蔵大尉、末松大尉、志村中尉、志岐中尉、齋藤予備役少将で、東京陸軍軍法会議の判決=1月18日、陸軍省発表=1月19日午後1時58分と記されている。
末松太平が(志村氏、杉野氏と共に)弘前陸軍拘置所に収監されたのは昭和11年3月7日で、3月末には東京に移送されている。起訴(第3次)=8月20日。公判開始=10月10日。求刑=10月19日。既に(7月12日に)15人の死刑が執行されている。

「年表・末松太平=1993年2月24日初版完成」には“入獄から出獄までの経過”が詳しくは記されていない。そもそも、この「年表」は、末松太平の葬儀(1993年1月17日)翌日から、賢崇寺の法要に“初参列”するために“突貫工事”で「それまで全く無関心だった父親の人生」を把握するために作成した“不完全版”であった。
今回の遺品整理は“廃棄処分”が最終目的ではあるが、保管者(私の妹)から「全てに目を通した上で処分して欲しい」という指令を受けている。全てに目を通せば“知らなかった史料”に出会うことになる。例えば「二・二六事件直後の“東奥日報”ファイル」、例えば「末松太平が獄中で記していたノート」、例えば「仮出獄関連の公式文書」などなど。
出逢った以上は、そのまま廃棄してしまうわけにもいかない。不完全版の「年表・末松太平」を補強するためにも、とりあえずは「末松太平事務所」に記録しておくことにする。

この「大阪朝日新聞・第二号外」には「発行所 大阪朝日新聞九州支社=門司市東本町三丁目」と記されている。福岡県門司市(北九州市門司区)は、末松太平の故郷である。この新聞を大切に保存していたのは、末松太平の実家(父か弟)だと思う。私にとって、この新聞は“史料”ではなく“家族の絆を想起させるモノ”としての価値が大きい。



毎度お馴染の“燃えるゴミ”の紹介である。
末松太平の遺品から「7枚の地図」を発見した。何かの書籍に附せられていた資料だと思う。7枚の地図を大切に保管していた理由は判らない。何かの原稿を書くために保存していたのだろう。紙質が良く劣化もしていない。しかし、現在の私には全く必要がないものである。廃棄することに迷いはない。

「年表・末松太平」の空白部分を埋めるものとして、記録だけ残しておく。
・附図第1・1914年9月中旬の中欧諸国の状況。
・附図第2・1914年9月中旬の西方戦場での状況。
・附図第3・1914年10月中旬の西方戦場での状況。
・附図第4・ロシア戦線の両翼に対する攻撃。1915年1月〜2月。
・附図第5・東方戦場における1915の夏季戦役。
・附図第6・セルビアにおける作戦(1915年秋季)。
・附図第7・1916年夏季のブルシロフ攻勢。

地図には(例えば附図第2の場合)ドイツ軍部隊、フランス軍部隊、イギリス軍部隊の戦闘経過が載っているから「戦記愛好家」には面白い資料だと思う。ついでに附図第7を紹介すれば、ドイツ軍の戦線、オーストリア・ハンガリイ軍の戦線が図示されている。(末松)

◎史料整理=入獄から出獄までの日々 (2)

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遺品を整理していたら「東奥日報のコピー」に出会った。昭和11年(1936)2月25日朝刊〜2月29日夕刊の主要部分のコピーが計18枚保管されていた。画像から推察できると思うが、現在のようなゼロックスコピーではない。多分、湿式コピー(正式な名称はしらない)だと思う。因みに、私が社会人になった当時(1960年代)のコピー作業は、元原稿(薄い紙に書いていた)と印刷用紙を重ねて“液体”の中を潜らせていた。それに比べれば“末松太平保管のコピー”は遥かに進化しているが、紙面の変色は止められない。やがては判読不能になるだろう。

2月26日の朝、八甲田登山行軍の準備で連隊本部に寄った末松太平は、東奥日報の竹内俊吉記者からの電話で「二・二六事件」を初めて知った。このあたりの経過は「私の昭和史」に記されているが、それと対比して「東奥日報のコピー」に目を通すと「東京」と「青森」の“距離”が感じとれるように思える。

●2月25日朝刊。
2面記事「特別議会終了を待って岡田内閣総辞職せん 真の政局安定のためにも賢明の策」「民政205、政友174、昭和20、国同15、無産22、その他団体3、中立27」
●2月25日夕刊。
1面記事「特別議会は4月20日召集 会期は3週間に決定」
●2月26日朝刊。
1面記事「対伊制裁撤廃と地中海の英艦接収」
2面記事「検察当局の固い臍 現在検挙45件133人」

●2月27日朝刊=画像参照。
1面記事「昨暁青年将校等重臣を襲撃 岡田首相、齋藤内大臣、渡邊大将即死 鈴木侍従長重傷、高橋蔵相負傷」「第一、第二艦隊東京、大阪湾廻航」
2面記事「昨日午後3時第一師管に戦時警備下令さる 治安は維持せられ一般市民安堵」「臨時首相決定 後藤大臣に御沙汰」
●2月28日夕刊。
1面記事「内閣総辞職 今暁零時辞表奉呈」「町田商工大臣 大蔵大臣兼任 今朝親任式挙行」「東京市に戒厳令 今朝四時官報号外で公布」「生気を吸収し始めた戒厳令下の帝都 不安の一夜も明けて」
2面記事「高橋蔵相遂に斃去」「帝都の治安は平静に維持 人心は安堵 各地とも異状なし」「秩父宮殿下御帰京」
●2月28日朝刊。
1面記事「秩父宮殿下を首め奉り 五宮殿下御参内」「風説に迷はされるな 戒厳司令部発表」
2面記事「
●2月28日夕刊。
1面記事「治安維持の見通しもつき 各閣僚宮中より退下 川島陸相は今朝7時50分」「秩父宮殿下御退下」「高松宮殿下も退下」「強力内閣実現は必至」「林、荒木両大将、香椎司令官と協議」「



「東奥日報」のコピーは、この状態である

廃棄処分(燃えるゴミ)にするしかない。
その前に、要点だけは、画像で紹介しておこうと思う。

多分、東奥日報社には“当時の紙面”がマイクロフィルム(DVDですか?)で保存してある筈である。
私の手元にある古新聞のコピーを廃棄しても、現代史研究家諸氏が困ることは全くないだろう。

◎お詫び&現況報告・・・ などなど

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更新が滞っております。
申し訳ありません。

それなりの理由があるのですが
それはさておき・・・・

この状況でも 閲覧者数が連日3桁を持続しています。
申し訳ない限りです。

実は 2月26日の翌朝から パソコントラブルが続いています。
そういうことで 更新再開はもう少し遅れます。

渡邊真知子サンの「カモメが飛んだ日」を聞きながら
もう暫くお待ちください。

画像=正月に撮影した「二・二六慰霊像」。
「慰霊像護持の会」の皆様のお陰で いつもきれいに保たれています。



2014年元旦。多くの皆様から新年のご挨拶が届きましたが
最も嬉しかったのは 波多江たま様(對馬中尉の御令妹)からの年賀状でした。
二・二六事件の精神を正しく伝える“証人”として
いつまでもお元気でいただきたいものです。

「つらな様」や「江翠様」の年賀状にも ニコニコ致しました。
当ブログがご縁で知り合った方から戴く年賀状は 嬉しいものです。
以前に 当ブログのコメント欄(私信扱い)で“住所&氏名”が記されていましたので
当方からの年賀状も元旦に届くよう投函しておりました。

因みに 掲載画像は今年の年賀状作成の際の「素材」です。
勿論「夫婦の平和史」という文庫本(太平文庫刊)は この世に存在しないのですが
マジメな友人のなかには勘違いした方も数人いて 家人に“説明不足”と叱られました。

(末松)




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