迷った末に「法要」に参列することにした。
今までの私は(正面左右に遺族席と関係者席が設けられていた当時も)ラフなスタイルで参列していた。
しかし、今回は「最後の参列」になるかもしれないので「法要に相応しい服装」に身を整えて家を出た。
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JR原宿駅で下車して「慰霊像」に到着。11時過ぎの慰霊像周辺は静けさを取り戻している。
①「慰霊像護持の会」による追悼式は 既に終わっている。
②「二・二六事件殉国烈士慰霊の会」主催の追悼式(昨年は来賓挨拶を務めた)も 既に終わっている。
今回は どちらの追悼式もスルーすることにして、遅い時間に家を出た。
賢崇寺に直行するか、慰霊像経由で賢崇寺に向かうか・・・。迷いながらの「慰霊像経由」となった。
「ひとり追悼式」を終えて、JR渋谷駅前まで歩く。久しぶりの道筋が懐かしい。渋谷駅前は相変わらず工事中で「バス乗り場」探しに手間取る。昨年はうっかり《違う路線》に乗ってしまって、賢崇寺まで20分ほど歩く顛末となった。今回は 正しい乗り場に到達して「麻布十番」に向かう。昔々、慰霊像の追悼式に参列した高橋正衞サンと一緒に「賢崇寺」に向かったことを 懐かしく思い出す。
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既に13時を過ぎている。賢崇寺への参道もひっそりとしている。
この急坂を自力で上れなくなったら、法要参列を諦めるしかない・・・。姿を消した先輩諸氏は数限りない。
幸いにも 85歳寸前の私は 足を止めることもなく一気に登り切ることができた。
賢崇寺の境内もひっそりしている。関係者の姿はない。黒服の人々(公安関係者)だけが残っている。
ここで《予期せぬ出来事》に遭遇。玄関に内鍵が掛けられていて扉が開かない。閉め出されている状況である。公安に注視されているから冷静を装うが 内心のショックは隠せない。
気を取り直して「ご用の方は押して下さい」と書かれた釦を押す。横の小窓が開いて女性が顔を見せる。
「二・二六事件の法要はないのですか?」「今日は遺族の方だけで法要を行っています」「・・・Д、ロ゚」
今日は《遺族の人だけ》で・・・。さあ、どうする。
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玄関の扉は開かなかったが、本堂正面に回り《普段は通らない階段》を登って「法要の席」に到着。
読経の最中なので こっそりと末席に着座。落ち着く間もなく御焼香が始まり、静かに列の後ろにつく。
法要では、導師によって「招霊」される方々が「殉難重臣・殉職警察官・二十二士・その他の物故者」という順序で読み上げられる。その他の物故者として「末松太平」も招霊されている。だから私が(2月26日の法要に)遺族として参列することには問題がない。
今回の「遺族の方だけでの法要」は、賢崇寺様のお導きによるものだと聞いた。時の流れに応じた「適切なお導き」だと 私は思う。
私が(末松太平の死後に)法要に参列するようになった頃は、本堂に溢れる程の人々が終結して、御焼香も《三人並び》でなければ捌くことができなかった。藤田導師の他にも僧侶2名が加わって、荘厳な雰囲気を醸し出していた。
しかし、歳月の経過と共に、参列できる「遺族」の数は急減していく。参列者の激減は「御香典」の激減を伴うから、法要に必要な経費を支えることも難しくなっていく。
法要は「施主=仏心会」として行われていた。しかし、現在は「施主=仏心会・慰霊像護持の会」として行われている。仏心会と慰霊像護持の会、どちらの会員でもない私には《詳しい事情》は判らない。周辺情報や体感を基にして推測するしかない。
以下に記すことは 私なりの推測によるものである。
平成13年度の「収支報告書」が手元にある。当時の私は(それなりの立場として)法要に協力していたのだった。明細は公表できないが(現在と比較するために)香典と法要費に触れてみる。香典は(2月と7月とを併せれば)それなりの金額にはなった。といっても「法要の経費」とほぼ同額というレベルである。既に当時から「年々参列者が減少している。香典も減少している・・・」という将来への不安は存在していたのだった。
法要に必要な《収入》は望めなければ《支出》を縮小することになる。昨今の法要は《賢崇寺様の御厚意》に支えられて持続されている。賢崇寺様の御厚意=真摯な遺族達への御厚意。法要は《事件関係者達による追悼会》ではなくなっているのだ。
「遺族だけでの法要」に「雑音」は不要である。因みに、今日の法要でも「遺族達の現況を対面取材したい」という「雑音」が拒絶されていたらしい。
「法要」の後には「森田朋美サンのお供」が控えている。麻布十番駅から白金台駅へ。目的=池田俊彦少尉の墓参。賢崇寺法要の供花を(導師様の許しを得て)お裾分け。池田少尉の墓前に捧げる。
森田朋美(森田忠明夫人)サン=慰霊像護持の会・世話人。彼女は著作「二・二六事件/雪降リ止マズ」執筆の際、池田俊彦氏の指導を受けている。人生の恩人である。
墓参の後は「バーミヤン白金台店」で生ビール。やがて 今泉章利氏(慰霊像護持の会・世話役代表)と大石健一氏(読売新聞記者)も所用を済ませて合流。楽しい宴が続いた。(末松建比古)
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今までの私は(正面左右に遺族席と関係者席が設けられていた当時も)ラフなスタイルで参列していた。
しかし、今回は「最後の参列」になるかもしれないので「法要に相応しい服装」に身を整えて家を出た。

JR原宿駅で下車して「慰霊像」に到着。11時過ぎの慰霊像周辺は静けさを取り戻している。
①「慰霊像護持の会」による追悼式は 既に終わっている。
②「二・二六事件殉国烈士慰霊の会」主催の追悼式(昨年は来賓挨拶を務めた)も 既に終わっている。
今回は どちらの追悼式もスルーすることにして、遅い時間に家を出た。
賢崇寺に直行するか、慰霊像経由で賢崇寺に向かうか・・・。迷いながらの「慰霊像経由」となった。
「ひとり追悼式」を終えて、JR渋谷駅前まで歩く。久しぶりの道筋が懐かしい。渋谷駅前は相変わらず工事中で「バス乗り場」探しに手間取る。昨年はうっかり《違う路線》に乗ってしまって、賢崇寺まで20分ほど歩く顛末となった。今回は 正しい乗り場に到達して「麻布十番」に向かう。昔々、慰霊像の追悼式に参列した高橋正衞サンと一緒に「賢崇寺」に向かったことを 懐かしく思い出す。

既に13時を過ぎている。賢崇寺への参道もひっそりとしている。
この急坂を自力で上れなくなったら、法要参列を諦めるしかない・・・。姿を消した先輩諸氏は数限りない。
幸いにも 85歳寸前の私は 足を止めることもなく一気に登り切ることができた。
賢崇寺の境内もひっそりしている。関係者の姿はない。黒服の人々(公安関係者)だけが残っている。
ここで《予期せぬ出来事》に遭遇。玄関に内鍵が掛けられていて扉が開かない。閉め出されている状況である。公安に注視されているから冷静を装うが 内心のショックは隠せない。
気を取り直して「ご用の方は押して下さい」と書かれた釦を押す。横の小窓が開いて女性が顔を見せる。
「二・二六事件の法要はないのですか?」「今日は遺族の方だけで法要を行っています」「・・・Д、ロ゚」
今日は《遺族の人だけ》で・・・。さあ、どうする。

玄関の扉は開かなかったが、本堂正面に回り《普段は通らない階段》を登って「法要の席」に到着。
読経の最中なので こっそりと末席に着座。落ち着く間もなく御焼香が始まり、静かに列の後ろにつく。
法要では、導師によって「招霊」される方々が「殉難重臣・殉職警察官・二十二士・その他の物故者」という順序で読み上げられる。その他の物故者として「末松太平」も招霊されている。だから私が(2月26日の法要に)遺族として参列することには問題がない。
今回の「遺族の方だけでの法要」は、賢崇寺様のお導きによるものだと聞いた。時の流れに応じた「適切なお導き」だと 私は思う。
私が(末松太平の死後に)法要に参列するようになった頃は、本堂に溢れる程の人々が終結して、御焼香も《三人並び》でなければ捌くことができなかった。藤田導師の他にも僧侶2名が加わって、荘厳な雰囲気を醸し出していた。
しかし、歳月の経過と共に、参列できる「遺族」の数は急減していく。参列者の激減は「御香典」の激減を伴うから、法要に必要な経費を支えることも難しくなっていく。
法要は「施主=仏心会」として行われていた。しかし、現在は「施主=仏心会・慰霊像護持の会」として行われている。仏心会と慰霊像護持の会、どちらの会員でもない私には《詳しい事情》は判らない。周辺情報や体感を基にして推測するしかない。
以下に記すことは 私なりの推測によるものである。
平成13年度の「収支報告書」が手元にある。当時の私は(それなりの立場として)法要に協力していたのだった。明細は公表できないが(現在と比較するために)香典と法要費に触れてみる。香典は(2月と7月とを併せれば)それなりの金額にはなった。といっても「法要の経費」とほぼ同額というレベルである。既に当時から「年々参列者が減少している。香典も減少している・・・」という将来への不安は存在していたのだった。
法要に必要な《収入》は望めなければ《支出》を縮小することになる。昨今の法要は《賢崇寺様の御厚意》に支えられて持続されている。賢崇寺様の御厚意=真摯な遺族達への御厚意。法要は《事件関係者達による追悼会》ではなくなっているのだ。
「遺族だけでの法要」に「雑音」は不要である。因みに、今日の法要でも「遺族達の現況を対面取材したい」という「雑音」が拒絶されていたらしい。
「法要」の後には「森田朋美サンのお供」が控えている。麻布十番駅から白金台駅へ。目的=池田俊彦少尉の墓参。賢崇寺法要の供花を(導師様の許しを得て)お裾分け。池田少尉の墓前に捧げる。
森田朋美(森田忠明夫人)サン=慰霊像護持の会・世話人。彼女は著作「二・二六事件/雪降リ止マズ」執筆の際、池田俊彦氏の指導を受けている。人生の恩人である。
墓参の後は「バーミヤン白金台店」で生ビール。やがて 今泉章利氏(慰霊像護持の会・世話役代表)と大石健一氏(読売新聞記者)も所用を済ませて合流。楽しい宴が続いた。(末松建比古)
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