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《「年表・末松太平」1992(平成4)年。/末松太平=86歳~87歳。/私=51歳~52歳。》
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◎1992年1月2日。末松一家の正月(顔合わせ)は「1月2日」が吉例になっていた。
・・・末松太平夫妻を囲んで、長男夫妻+孫1人、次男夫妻+孫3人、長女夫妻+孫1人。
末松太平の「甚だしい衰弱ぶり」が哀しい。
◎1992年4月発行「史・78」。「二・二六事件断章(その九)三たび岩淵中尉の死に就いて」。
・・・この原稿は1992年2月5日に書かれている。
・・・この連作が契機となって、岩淵国太郎中尉の次弟(憲次郎氏)末弟(武雄氏)との交遊ができた。
・・・後日(翌年)岩手県在住の両氏は、末松太平の葬儀に駆けつけてくれている。
・・・この号から「現代史懇話会顧問」として、最終ページに「末松太平」の名前が記載されている。
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◎1992年7月25日。有志の皆様から「米寿を祝う会」に招待される。
・・・会場は、西千葉駅前の「みどり鮨」。末松太平夫妻を招いて「御祝」を贈った有志は、以下の六氏である。
相沢正彦氏、田々宮英太郞氏、山口富永氏、今泉章利氏、今澤栄三郎氏、山田恵久氏。そして(当日は出席できなかった)小野敏範氏からも「御祝」を戴いている。
・・・この当時「末松太平の世界」に無関心だった長男(私)は、この「催し」を知らなかった。そして「当日の記念写真」を見せられても「知らない人ばかり」であった。皆様と御縁が出来るのは「末松太平の死後」のことである。
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◎1992年9月20日。今泉章利氏の案内で、河野進氏(故河野司氏の次男)が、末松家を初訪問。
・・・「河野司&末松太平」の連携を知るものには「信じられない」ことだろうが、河野進は(極論すれば)この時まで、末松太平と話したことがなかったのではないか。
◎1992年9月発行「史・79」。「二・二六事件断章(その十)獄内人間模様」。
・・・私の印象だが、もはや、長文を書くだけのパワーは消えている。
・・・そして《1992年12月発行「史・80」》には、末松太平の「連載」は載っていない。
田々宮英太郞(編集兼発行人)の「編集余情」には「末松さんの二・二六事件断章は、〆切に間に合わず今号は休載」とだけ記されている。
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◎写真は、取材(国民新聞社)に同席したカメラマン氏の御厚意で穫っていただいた作品。
・・・「折角の機会だから撮っておきます」と多数撮影。数点を大きく引伸ばして届けていただいた。要するに《葬儀用写真》の準備である。
・・・しかし、肝心の時に、この写真は使われなかった。未亡人(末松敏子)が「何処に写真を仕舞ったのか判らない」と言い出して、使用できなかったのである。
《「年表・末松太平」1992(平成4)年。/末松太平=86歳~87歳。/私=51歳~52歳。》
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◎1992年1月2日。末松一家の正月(顔合わせ)は「1月2日」が吉例になっていた。
・・・末松太平夫妻を囲んで、長男夫妻+孫1人、次男夫妻+孫3人、長女夫妻+孫1人。
末松太平の「甚だしい衰弱ぶり」が哀しい。
◎1992年4月発行「史・78」。「二・二六事件断章(その九)三たび岩淵中尉の死に就いて」。
・・・この原稿は1992年2月5日に書かれている。
・・・この連作が契機となって、岩淵国太郎中尉の次弟(憲次郎氏)末弟(武雄氏)との交遊ができた。
・・・後日(翌年)岩手県在住の両氏は、末松太平の葬儀に駆けつけてくれている。
・・・この号から「現代史懇話会顧問」として、最終ページに「末松太平」の名前が記載されている。


◎1992年7月25日。有志の皆様から「米寿を祝う会」に招待される。
・・・会場は、西千葉駅前の「みどり鮨」。末松太平夫妻を招いて「御祝」を贈った有志は、以下の六氏である。
相沢正彦氏、田々宮英太郞氏、山口富永氏、今泉章利氏、今澤栄三郎氏、山田恵久氏。そして(当日は出席できなかった)小野敏範氏からも「御祝」を戴いている。
・・・この当時「末松太平の世界」に無関心だった長男(私)は、この「催し」を知らなかった。そして「当日の記念写真」を見せられても「知らない人ばかり」であった。皆様と御縁が出来るのは「末松太平の死後」のことである。

◎1992年9月20日。今泉章利氏の案内で、河野進氏(故河野司氏の次男)が、末松家を初訪問。
・・・「河野司&末松太平」の連携を知るものには「信じられない」ことだろうが、河野進は(極論すれば)この時まで、末松太平と話したことがなかったのではないか。
◎1992年9月発行「史・79」。「二・二六事件断章(その十)獄内人間模様」。
・・・私の印象だが、もはや、長文を書くだけのパワーは消えている。
・・・そして《1992年12月発行「史・80」》には、末松太平の「連載」は載っていない。
田々宮英太郞(編集兼発行人)の「編集余情」には「末松さんの二・二六事件断章は、〆切に間に合わず今号は休載」とだけ記されている。
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◎写真は、取材(国民新聞社)に同席したカメラマン氏の御厚意で穫っていただいた作品。
・・・「折角の機会だから撮っておきます」と多数撮影。数点を大きく引伸ばして届けていただいた。要するに《葬儀用写真》の準備である。
・・・しかし、肝心の時に、この写真は使われなかった。未亡人(末松敏子)が「何処に写真を仕舞ったのか判らない」と言い出して、使用できなかったのである。