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《「年表・末松太平」1983(昭和58)年。/末松太平=77歳~78歳。私=42歳~43歳。》
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◎昭和58年の年賀状。(右=昭和55年)
・・・原爆反対。大気汚染反対。次第に「主張」の対象が拡がっている。
◎末松太平は、孫の末松一輝宛に「69通の手紙」を書いている。
・・・末松太平の「晩年」を端的に示す資料として、適宜紹介していく。
●1983年6月2日。/最初の手紙。
「本を買うための、お小遣いを送る。これで『小学三年生』を買いなさい。歴史辞典三巻を、まだ買っていなかったら、それも、これで買いなさい」
◎1983年10月25日。千葉市登戸の家を離れる。
・・・千葉市幸町(尾島正晃・田鶴子宅)に一時寄留。
・・・朽廃が甚だしい末松太平邸を「改装」するためである。改装費用は長女(田鶴子)が負担している。
・・・じいちゃんは(全て娘任せて)気楽なものである。膨大な書籍資料の「保管対策」で、尾島夫妻は大変だった。
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《「年表・末松太平」1984(昭和59)年。/末松太平=78歳~79歳/私=43~44才。》
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◎「末松一輝宛の手紙」を続ける。
●1984年2月24日付。
「辞書に説明がしてあるが、目がねの度が合わなく詠めない」。
・・・この手紙は便箋8枚の長文。便箋1枚あたり「8~10行」が大きな文字で書かれている。
●1984年5月2日付。
「目が悪くて手紙を書くにも骨が折れる」。
・・・文字が大きくなり、便箋1枚あたり「6行」になる。この手紙の住所は「千葉市登戸」に戻っている。
●1984年5月19日付。
「目が悪いから目茶目茶に書くよ」。
・・・便箋5枚。1枚目には「5行」しか書かれていない。
●1984年5月25日付。
「一週間で目がよくなるという本を買うが、目が悪くなって読めない。/目が悪いので、あてすっぽに書いているから、字が乱暴で」。
●1984年6月28日付。
「目が相かわらず悪いので字を書くのがむずかしい。入院して手術しないとなおらないようだ」。
・・・この手紙は便箋7枚。半失明状態で7枚も書き続ける気力には感服させられる。
◎1984年8月。慶応病院(JR信濃町駅前)に長期入院=24日間。
・・・入院理由=手術(糖尿病が原因の網膜剥離)。
★資料★・・・・・・・・・・・
《末松太平の「遺品」から。大学ノート「闘病日記」。》
●本人は、全快を信じているから明るい内容である。
●孫(尾島匡則)制作の「快癒祈願てるてる坊主」を喜び(自分のことよりも)夏休みでアメリカ旅行中の孫二人(小学四年生と三年生)を気遣っている。
・・・孫たち(一輝と匡則)は、それぞれの母親と計4人で、ヒューストン在住の「末松太平の次男」を訪問した。以前からの旅行計画で、チケット手配も全て完了。末松太平の「手術」と重なったのは全くの偶然である。
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《「年表・末松太平」1985(昭和60)年。/末松太平=79歳~80歳。私=44歳~45歳。》
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◎「末松一輝宛の手紙」を続ける。
●1985年2月28日付。
・・・(手術入院などの中断で)半年ぶりの手紙であるが、目に関することは書かれていない。
・・・鈴木喜代春(児童文学者)の新作「北の海の白い十字架」のことなど、内容も明るい。
★資料★・・・・・・・・・・
《鈴木喜代春著「北の海の白い十字架」1985年・金の星社刊/序文。》
「わたしが青森県車力村の北沢得太郎さんを訪ねるため、上野駅から夜行列車に乗ったのは、昭和四十二年七月十九日でした。/わたしに北沢さんを紹介してくれたのは、北沢さんの先生の末松太平さんです。末松さんは今は千葉市に住んでいます。北沢さんを訪ねる気になったのは、北沢さんの住む車力村が、昔は腰切田の村だったということを、末松さんから聞いたからでした。腰切田というのは『腰までぬかる田んぼ』ということです」
・・・以下省略。「車力村」は、津軽半島の北、十三湖の南岸に広がる村。末松太平は「車力村の話」を、機会がある度、友人達に話していた・
◎1985年4月半ば。池田俊彦氏、末松家に来訪。
★資料★・・・・・・・・・・
《池田俊彦「生きていた二・二六」1987年・文藝春秋社刊。》
「昭和60年になって、手記を書きながら、様々な疑問にぶつかった。私は自分の考えを整理するためにも、先輩である末松太平氏の話を聞くことを思い立った。/4月半ば、千葉の末松宅を訪ねた私は、朝から晩まで、ゆっくり末松さんと話すことができた。」
「末松さんは網膜剥離という難病に罹り、二度の手術を受けて、視力が甚だしく衰え、天眼鏡でしか本を読むことができない状態であった。それにも拘わらず、十月事件の話や、対馬中尉のこと、西田税のこと、大岸頼好のこと、そして戦後の旧軍人の動きなど、熱心な話は尽きることがなかった(話の内容は省略)。」
「それから少し経って、末松さんは私に手紙を下さった。その手紙には『車力村村史』からの『小作争議』と『館城文化』からの対馬中尉に関するコピーが添えられていて『このセットが小生における二・二六の原点です』と書かれていた。」
・・・池田さんが「二度の手術」と書いている。「闘病日記」の「入院42日間」という長期間の謎が、これで解ける。
◎「末松一輝宛の手紙」を続ける。
●1985年9月29日付。
「(土地の高度と気温の関係が)ジイには今すぐには答えられない。調べるには目の悪いのが、邪魔になる」。
・・・二度の手術に拘わらず、視力は回復していない。
◎1985年10月。次男一家(夫婦+娘3人)が、海外勤務先(ヒューストン)から帰国する。
・・・帰国後、小平~花小金井~田無と転居を重ねたが、現在は「西東京市(旧田無市)」在住である。
◎1985年12月。小田急建材ベストン(株)営業部「ベストンの話」小冊子発行。
・・・小冊子から、秋葉社長による「ご挨拶」を紹介しておく。
「当社技術顧問であり、ベストンについて高い見識の持主である末松太平氏より『ベストンの話』と題する一文をいただきました。販売店ユーザーの方々にも御一読いただきたく、頒布することに致しました」。
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《「年表・末松太平」1983(昭和58)年。/末松太平=77歳~78歳。私=42歳~43歳。》
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◎昭和58年の年賀状。(右=昭和55年)
・・・原爆反対。大気汚染反対。次第に「主張」の対象が拡がっている。
◎末松太平は、孫の末松一輝宛に「69通の手紙」を書いている。
・・・末松太平の「晩年」を端的に示す資料として、適宜紹介していく。
●1983年6月2日。/最初の手紙。
「本を買うための、お小遣いを送る。これで『小学三年生』を買いなさい。歴史辞典三巻を、まだ買っていなかったら、それも、これで買いなさい」
◎1983年10月25日。千葉市登戸の家を離れる。
・・・千葉市幸町(尾島正晃・田鶴子宅)に一時寄留。
・・・朽廃が甚だしい末松太平邸を「改装」するためである。改装費用は長女(田鶴子)が負担している。
・・・じいちゃんは(全て娘任せて)気楽なものである。膨大な書籍資料の「保管対策」で、尾島夫妻は大変だった。
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《「年表・末松太平」1984(昭和59)年。/末松太平=78歳~79歳/私=43~44才。》
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◎「末松一輝宛の手紙」を続ける。
●1984年2月24日付。
「辞書に説明がしてあるが、目がねの度が合わなく詠めない」。
・・・この手紙は便箋8枚の長文。便箋1枚あたり「8~10行」が大きな文字で書かれている。
●1984年5月2日付。
「目が悪くて手紙を書くにも骨が折れる」。
・・・文字が大きくなり、便箋1枚あたり「6行」になる。この手紙の住所は「千葉市登戸」に戻っている。
●1984年5月19日付。
「目が悪いから目茶目茶に書くよ」。
・・・便箋5枚。1枚目には「5行」しか書かれていない。
●1984年5月25日付。
「一週間で目がよくなるという本を買うが、目が悪くなって読めない。/目が悪いので、あてすっぽに書いているから、字が乱暴で」。
●1984年6月28日付。
「目が相かわらず悪いので字を書くのがむずかしい。入院して手術しないとなおらないようだ」。
・・・この手紙は便箋7枚。半失明状態で7枚も書き続ける気力には感服させられる。
◎1984年8月。慶応病院(JR信濃町駅前)に長期入院=24日間。
・・・入院理由=手術(糖尿病が原因の網膜剥離)。
★資料★・・・・・・・・・・・
《末松太平の「遺品」から。大学ノート「闘病日記」。》
●本人は、全快を信じているから明るい内容である。
●孫(尾島匡則)制作の「快癒祈願てるてる坊主」を喜び(自分のことよりも)夏休みでアメリカ旅行中の孫二人(小学四年生と三年生)を気遣っている。
・・・孫たち(一輝と匡則)は、それぞれの母親と計4人で、ヒューストン在住の「末松太平の次男」を訪問した。以前からの旅行計画で、チケット手配も全て完了。末松太平の「手術」と重なったのは全くの偶然である。
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《「年表・末松太平」1985(昭和60)年。/末松太平=79歳~80歳。私=44歳~45歳。》
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◎「末松一輝宛の手紙」を続ける。
●1985年2月28日付。
・・・(手術入院などの中断で)半年ぶりの手紙であるが、目に関することは書かれていない。
・・・鈴木喜代春(児童文学者)の新作「北の海の白い十字架」のことなど、内容も明るい。
★資料★・・・・・・・・・・
《鈴木喜代春著「北の海の白い十字架」1985年・金の星社刊/序文。》
「わたしが青森県車力村の北沢得太郎さんを訪ねるため、上野駅から夜行列車に乗ったのは、昭和四十二年七月十九日でした。/わたしに北沢さんを紹介してくれたのは、北沢さんの先生の末松太平さんです。末松さんは今は千葉市に住んでいます。北沢さんを訪ねる気になったのは、北沢さんの住む車力村が、昔は腰切田の村だったということを、末松さんから聞いたからでした。腰切田というのは『腰までぬかる田んぼ』ということです」
・・・以下省略。「車力村」は、津軽半島の北、十三湖の南岸に広がる村。末松太平は「車力村の話」を、機会がある度、友人達に話していた・
◎1985年4月半ば。池田俊彦氏、末松家に来訪。
★資料★・・・・・・・・・・
《池田俊彦「生きていた二・二六」1987年・文藝春秋社刊。》
「昭和60年になって、手記を書きながら、様々な疑問にぶつかった。私は自分の考えを整理するためにも、先輩である末松太平氏の話を聞くことを思い立った。/4月半ば、千葉の末松宅を訪ねた私は、朝から晩まで、ゆっくり末松さんと話すことができた。」
「末松さんは網膜剥離という難病に罹り、二度の手術を受けて、視力が甚だしく衰え、天眼鏡でしか本を読むことができない状態であった。それにも拘わらず、十月事件の話や、対馬中尉のこと、西田税のこと、大岸頼好のこと、そして戦後の旧軍人の動きなど、熱心な話は尽きることがなかった(話の内容は省略)。」
「それから少し経って、末松さんは私に手紙を下さった。その手紙には『車力村村史』からの『小作争議』と『館城文化』からの対馬中尉に関するコピーが添えられていて『このセットが小生における二・二六の原点です』と書かれていた。」
・・・池田さんが「二度の手術」と書いている。「闘病日記」の「入院42日間」という長期間の謎が、これで解ける。
◎「末松一輝宛の手紙」を続ける。
●1985年9月29日付。
「(土地の高度と気温の関係が)ジイには今すぐには答えられない。調べるには目の悪いのが、邪魔になる」。
・・・二度の手術に拘わらず、視力は回復していない。
◎1985年10月。次男一家(夫婦+娘3人)が、海外勤務先(ヒューストン)から帰国する。
・・・帰国後、小平~花小金井~田無と転居を重ねたが、現在は「西東京市(旧田無市)」在住である。
◎1985年12月。小田急建材ベストン(株)営業部「ベストンの話」小冊子発行。
・・・小冊子から、秋葉社長による「ご挨拶」を紹介しておく。
「当社技術顧問であり、ベストンについて高い見識の持主である末松太平氏より『ベストンの話』と題する一文をいただきました。販売店ユーザーの方々にも御一読いただきたく、頒布することに致しました」。
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