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Channel: ◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 
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◎二・二六事件慰霊像建設予定地のこと◎

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◎昨年12月29日「師走恒例慰霊像表敬歩行」の中で「慰霊像に関しては何やら難しい問題も山積しているかも知れない」と記した。 
※そして新年。今泉章利サンからの年賀状には「念願だった慰霊像の石の台の補修工事が終わりました」と書き添えてあった。

※この慰霊像が完成して除幕式が行われたのは 1965(昭和40)年2月26日 事件から30年目のことである。
この日のことは 高橋正衛著「二・二六事件」中公新書刊(1965年8月25日初版)に詳しく紹介されている。
「高く掲げられた日章旗は風に音をたててはためき、参列者の合唱する『君が代』が風の中を流れていった。式はこの慰霊像建設にあたって献身的な努力をした河野司氏の挨拶にはじまった。司会は末松太平氏。午後1時42分、除幕のつなは引かれ、紅白の幕が下に落ちた。除幕のつなを引いたのは栗原勝子さん(栗原安秀陸軍中尉の御母堂)である」

※画像参照。ご紹介するのは「慰霊像除幕式」から更に歴史を遡った「慰霊像建立に着工した日」の記録写真である。
河野司氏など5名の隣には「二・二六事件殉難者慰霊碑建設地」と書かれている。注目していただきたいのは「慰霊像」ではなく「慰霊碑」と書かれていることである。
※言うまでもなくこの時点では「建設予定地」は平地であった。この写真からは「二十七尺の台座の上に十三尺の観音像が姿をあらわした」という除幕式の光景は全く想像できない。背後に見える高い壁は(これから撤去される筈の)陸軍刑務所の遺物であるに違いない。



※末松太平が読み上げている文章の内容は判らない。
「この値は陸軍刑務所跡の一隅であり、刑死した十九名とそれに先立つ永田事件の相沢三郎中佐が刑死した処刑場の一角である。この因縁の地を撰び、刑死した二十名と自決二名に加え、重臣、警察官この他事件関係犠牲者一切の霊を合せ慰め、且つは事件の意義を永く記念すべく、広く有志の浄財を集め、事件三十年記念の日を期して慰霊像建立を発願し、今ここに竣工をみた。謹んで諸霊の冥福を祈る」
上記は 慰霊像の台座に刻まれた碑文の後半部分だが 慰霊像建立着工の時点でも《これに近い主旨》が読み上げられたのかもしれない。


 ※河野司著「ある遺族の二・二六事件」河出書房新社刊(1982年3月20日初版)には「護国仏心会」の誕生から「事件満四十五周年記念追悼法要」に至るまでの苦難と執念の記録が綴られている。ここには「二十二士之墓」建立や「慰霊像」建立にまつわる苦難の数々も細かく記されている。
「北一輝先生の未亡人(昭和27年3月3日没)の十年祭を迎えて、杉並区の北家に関係者一同二十余名が集まって法要を営んだ時である。法要が終わったあとの歓談の席上、小早川秀浩氏から、元の陸軍刑務所の跡が近く米軍の接収から解除されて、その跡が渋谷区役所その他の庁舎建設の予定地になることが決まったとの話が出た。渋谷区選出の岡崎英城代議士の秘書として、渋谷に顔のある小早川氏の早耳であった」
「話はいつか、その刑場跡の土地を、何とかしてこの機会に払下げを受けられないものかという方向に進み、それには顔のきく小早川氏に 動いてもらい、それに私も積極的に協力して実現に努力するということに発展してしまった。昭和三十六年のことである」

※残念ながら「慰霊像建立に着手した日」についての記述はないが「建設準備事務所」の発足については記されていた。
「事務所の構成は、責任者河野司、相談役末松太平、常勤小早川英浩、監査役藤田俊訓とし、末松氏には随時相談相手として協力願うこととし、今後募金その他金銭出納監査の厳正を期するために、賢崇寺の藤田住職にも一役買っていただくことにし、事務所は、私のもうひとつの会社である三昭化成株式会社の一室をあてることにした。都心の田村町にあった」
※慰霊像除幕式から55年の歳月が流れ去った。
今泉章利サン(慰霊像護持の会・代表)の労苦に対しては感謝感謝の言葉しかない。(末松)
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