Quantcast
Channel: ◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 
Viewing all articles
Browse latest Browse all 464

◎例えば「真実を語り継ぐ役割について」とか◎

$
0
0

   ※今泉サンからの最終連絡=5月3日(火・祝)慰霊像前に11時集合。
    板橋区中台の我家から 都営三田線~JR山手線を乗り継いで 10時10分頃に原宿駅到着。                     
    改築された原宿駅舎を利用するのは今日が初めて。コロナ禍&外出自粛の日々をあらためて実感する。



   ※代々木公園・NHKホール前を経由して慰霊像に到着。森田朋美サンも到着して清掃開始。先ずは雑草の除去から。
    敷地左側から登って蔓延ったツツジの枝も伐採する。82歳老人には偶々の軽労働だが 慰霊像護持の会の皆様(ボランティアの皆様)に
    とっては偶々ではなく「定期的な護持行動」のひとつなのである。
    供花・焼香・そして(今泉サンによる)読経・合掌。通行中の男性に写真を撮っていただいて 慰霊像前の2時間は完了。

   ※今泉サンの車で青山霊園に向かう。何も判らぬままに朋美サンに従うと 高橋治郎氏の墓に到達した。
    高橋治郎氏=高橋太郎少尉の実弟。事件当時は18歳。1986年・光人社刊「青年将校・終わりなき二・二六事件」という著作もある。 
    この著作は 末松太平も恵贈されていて(遺品のひとつとして)私の書棚に並べられていた。

   ※高橋治郎様に生前お目にかかった記憶はない。賢崇寺の法要で会っていたかも知れないが 紹介された記憶はない。
    1986年2月26日。麻布賢崇寺「五十回忌法要」に渡辺和子氏(鈴木錠太郞総監総監・末娘)が初めて参列したことは 様々な文献に
    記されている。この時 渡辺氏に対面し謝罪したのが「安田善三郎氏と高橋治郎氏の2人」でということも 様々な文献に記されている。
    「だが この日を境に 治郎さんは法要に姿を見せなくなった」という記述もある。

   ※1986年2月26日の「法要」に 末松太平は参列していない。だから「渡辺和子氏に謝罪」はしていない。
    何かの理由があって 少し前から「法要」とは距離をおきはじめている。

   ※「天気は大変よい。が 2・26法要は欠席。身体の調子が良くても もう出席しない方がよいかも知れない。河野司氏より同氏著『二・
    二六事件秘話』を送ってくる。」 (1983年2月26日付・末松太平の日記)
    「7月12日の法要は欠席と 仏心会河野氏に暑中見舞をかねて報じる。」 これは7月9日付の日記。
    そして・・・。1984年8月 末松太平は慶応病院に入院(24日間)して 網膜剥離の手術を受けている。



   ※今泉サンの車で国際文化会館(六本木鳥居坂)のガーデンレストランに向かう。洒落たランチと生ビール。
    運転者の今泉サンには申訳ない仕打ちのようだが 重症の肺炎に苦しめられたばかりの今泉サンは 運転なしでも飲酒は厳禁。
    食事中の会話は やはり「真実を語り継ぐ役割について」に集約されていく。

   ※鳥居坂を下れば麻布賢崇寺。二十二士の墓を訪れる。続けて、河野司氏の墓、水上源一氏の墓、栗原安秀氏の墓。いうまでもなく 今泉家
    の墓もここにある。今回印象に残ったのは「合同墓」が新設されていたこと。合同墓に関心を抱いた理由については 稿を改めて。

   ※今回のイベント(?)は 地下鉄「麻布十番」駅前で無事に解散。今泉サンとは これでお別れ。
    しかし 酒豪女性2人が素直に解散に応じるわけもなく、前回同様に酒場「あべちゃん」に向かうことになった。(末松)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Viewing all articles
Browse latest Browse all 464

Trending Articles