1962(昭和37)年8月19日。高橋正衛氏は 西田税未亡人の部屋にいた。
「8月19日」は「西田税氏の命日」である。1937(昭和12)年のこの日に 北一輝 西田税 村中孝次 磯部浅一の四人が銃殺されている。
西田夫人の部屋の机の上には 雑誌が一冊置かれてあった。高橋正衛氏が知らない「政経新論」という雑誌である。高橋氏は(西田夫人がお茶を入れるため席を立った間に)何気なく雑誌に手を伸ばして目次を見た。
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「目次には『二・二六事件異聞/末松太平』という一行があるではないか。この瞬間《あったー》《本になるか》《どう書いているかな》《末松太平氏が》といういくつかの、とりとめのない感情の断片が、職業意識とこんがりあって、なんとも説明のつかない喜びが電光の如く私の身体を巡ったのである。二分間ぐらいの間である。/偶然である。この雑誌が机の上に置かれていたのは、べつに私が訪ねるからと西田さんが置いたものではなかった。何気なく置いたのである。私も何気なく手にとったのである。それが私と末松太平氏との真の出会いであった。末松氏の前半生の記録と 私という編集者が 西田税氏の仏壇の前で交結したのである。西田税氏と末松太平氏との関係を知る人には、ひとつの因縁といえるかもしれぬ」
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上記は「日本読書新聞」の連載シリーズ「名著の履歴書/編集者による記録集」からの引用である。
シリーズ第102回(昭和43年6月1日)と103回(6月8日)は「私の昭和史(上・下)」についての記録で 筆者は高橋正衛氏(みすず書房編集部)である。
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この日 高橋氏は西田夫人から「政経新論」3冊を借りて熟読し それから数日後に「政経新論社/丸の内の三菱四号館」を訪ねて 末松太平に初対面の挨拶をしている。
高橋正衛氏が「二・二六事件異聞」の存在を知ったのが 1962年の8月。そして 翌年の2月には「私の昭和史」が早くも出版されている。
まえがき「なお本書の註は、読者の理解の一助として、みすず書房編集部の高橋正衛氏が、附したものである。末松太平」
附された「註」は合計40箇所。詳しく説明されている。僅か半年間で よくぞここまで仕上げたものだ!。高橋正衛氏の力量には感服するしかない。
「一冊の本を公刊するという行為は 一編集者の個人的感激のみでなされるべきでない。公的な価値判断の検証、公刊による文化的影響の責任ということが先行する。末松氏に会って後、原稿全部をいただいて、社内の当然の検討・手続きを経て世に出たのである。/『私の昭和史』は重大な意味を持っていた。それが何であるかは、もとより本書を読まれれば理解しうる。またこの本の巻末に附されている『刊行者のあとがき』を読んでいただければ、なお幸いである。この『あとがき』は昭和38年という時点で本書が刊行されるにあたっての思想的配慮をすべきである、という一学者の御忠告により、この学者の多大の協力により書かれたものである」
高橋氏に忠告した《一学者》とは何方だったのだろうか。今となっては 知る由もない。
第102回の見出し「西田氏の仏壇の前/『二・二六事件異聞』と出会う」
第103回の見出し「わが子に書き残す/青春賭けた運動の鎮魂歌」
・・・書き残された「わが子=私」は当時22才。しかし 当時の私は 全く興味を示さずにいた。(末松)
「8月19日」は「西田税氏の命日」である。1937(昭和12)年のこの日に 北一輝 西田税 村中孝次 磯部浅一の四人が銃殺されている。
西田夫人の部屋の机の上には 雑誌が一冊置かれてあった。高橋正衛氏が知らない「政経新論」という雑誌である。高橋氏は(西田夫人がお茶を入れるため席を立った間に)何気なく雑誌に手を伸ばして目次を見た。
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「目次には『二・二六事件異聞/末松太平』という一行があるではないか。この瞬間《あったー》《本になるか》《どう書いているかな》《末松太平氏が》といういくつかの、とりとめのない感情の断片が、職業意識とこんがりあって、なんとも説明のつかない喜びが電光の如く私の身体を巡ったのである。二分間ぐらいの間である。/偶然である。この雑誌が机の上に置かれていたのは、べつに私が訪ねるからと西田さんが置いたものではなかった。何気なく置いたのである。私も何気なく手にとったのである。それが私と末松太平氏との真の出会いであった。末松氏の前半生の記録と 私という編集者が 西田税氏の仏壇の前で交結したのである。西田税氏と末松太平氏との関係を知る人には、ひとつの因縁といえるかもしれぬ」
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上記は「日本読書新聞」の連載シリーズ「名著の履歴書/編集者による記録集」からの引用である。
シリーズ第102回(昭和43年6月1日)と103回(6月8日)は「私の昭和史(上・下)」についての記録で 筆者は高橋正衛氏(みすず書房編集部)である。

この日 高橋氏は西田夫人から「政経新論」3冊を借りて熟読し それから数日後に「政経新論社/丸の内の三菱四号館」を訪ねて 末松太平に初対面の挨拶をしている。
高橋正衛氏が「二・二六事件異聞」の存在を知ったのが 1962年の8月。そして 翌年の2月には「私の昭和史」が早くも出版されている。
まえがき「なお本書の註は、読者の理解の一助として、みすず書房編集部の高橋正衛氏が、附したものである。末松太平」
附された「註」は合計40箇所。詳しく説明されている。僅か半年間で よくぞここまで仕上げたものだ!。高橋正衛氏の力量には感服するしかない。
「一冊の本を公刊するという行為は 一編集者の個人的感激のみでなされるべきでない。公的な価値判断の検証、公刊による文化的影響の責任ということが先行する。末松氏に会って後、原稿全部をいただいて、社内の当然の検討・手続きを経て世に出たのである。/『私の昭和史』は重大な意味を持っていた。それが何であるかは、もとより本書を読まれれば理解しうる。またこの本の巻末に附されている『刊行者のあとがき』を読んでいただければ、なお幸いである。この『あとがき』は昭和38年という時点で本書が刊行されるにあたっての思想的配慮をすべきである、という一学者の御忠告により、この学者の多大の協力により書かれたものである」
高橋氏に忠告した《一学者》とは何方だったのだろうか。今となっては 知る由もない。
第102回の見出し「西田氏の仏壇の前/『二・二六事件異聞』と出会う」
第103回の見出し「わが子に書き残す/青春賭けた運動の鎮魂歌」
・・・書き残された「わが子=私」は当時22才。しかし 当時の私は 全く興味を示さずにいた。(末松)