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《「年表・末松太平」1962(昭和37)年。/末松太平=56歳~57歳。私=21歳~22歳。》
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◎末松太平「二・二六事件異聞」連載継続中。
●「蹶起の前後(その2)」/「政経新論」1962年2月号(二・二六事件特集号)に掲載。
●「映画『脱出』について」/「政経新論」1962年6月号に掲載。
●「刑場の写真」/「政経新論」1962年8月号に掲載。
・・・この2作品は、1980年《「軍隊と戦後の中で」大和書房刊》に収録。
2023年《「定本 私の昭和史」中央公論新社刊》に再録された。
・・・東映映画「脱出」は、事件当日、首相官邸から岡田啓介首相を脱出させる過程を描いた作品。
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◎1962(昭和37)年8月19日。高橋正衛氏は 西田税未亡人の部屋にいた。
・・・この日は「西田税氏の命日」である。1937(昭和12)年のこの日に 北一輝 西田税 村中孝次 磯部浅一の四人が銃殺されている。
★資料★・・・・・・・・・・
《「日本読書新聞」の連載シリーズ「名著の履歴書/編集者による記録集」から》
・・・第102回(昭和43年6月1日)と第103回(6月8日)は「私の昭和史」の履歴書。高橋正衛氏(みすず書房編集部)による記録である。
「西田夫人の部屋の机の上には 雑誌が一冊置かれてあった。私(高橋正衛)が知らない「政経新論」という雑誌である。私は何気なく雑誌に手を伸ばして目次を見た。/目次には『二・二六事件異聞/末松太平』という一行があるではないか。この瞬間《あったー》《本になるか》《どう書いているかな》《末松太平氏が》という感情の断片が、職業意識と混じり合って、喜びが電光の如く私の身体を巡ったのである。/この雑誌が机の上に置かれていたのは偶然である、私が訪ねるからと西田さんが置いたものではない。何気なく置かれて。何気なく手にとった。それが私と末松太平氏との真の出会いであった。末松氏の前半生の記録と 私という編集者が 西田税氏の仏壇の前で交結したのである。西田税氏と末松太平氏との関係を知る人には、ひとつの因縁といえるかもしれぬ」
◎この日 高橋氏は西田夫人から「政経新論」3冊を借りて熟読。数日後に「政経新論社/丸の内の三菱四号館」で 末松太平に「初対面の挨拶」をしている。そして、翌年の2月には「私の昭和史」が出版されている。
◎「私の昭和史」の「まえがき」には「本書の註は、読者の理解の一助として、みすず書房編集部の高橋正衛氏が、附したものである。末松太平」と記されている。
・・・詳細に記された「註」は合計40箇所。「初対面」から「出版」までは僅か半年間。よくぞここまで仕上げたものだ!。高橋正衛氏の力量には感服するしかない。
◎「一冊の本を公刊するという行為は 一編集者の個人的感激のみでなされるべきでない。公的な価値判断の検証、公刊による文化的影響の責任ということが先行する。末松氏に会って後、原稿全部をいただいて、社内の当然の検討・手続きを経て世に出たのである。/『私の昭和史』は重大な意味を持っていた。それが何であるかは、もとより本書を読まれれば理解しうる。またこの本の巻末に附されている『刊行者のあとがき』を読んでいただければ、なお幸いである。この『あとがき』は昭和38年という時点で本書が刊行されるにあたっての思想的配慮をすべきである、という一学者の御忠告により、この学者の多大の協力により書かれたものである」
・・・高橋氏に忠告した「一学者」は「久野収氏」だったようである。
◎第102回と第103回は「西田氏の仏壇の前/『二・二六事件異聞』と出会う」と「わが子に書き残す/青春賭けた運動の鎮魂歌」である。
・・・書き残された「わが子=私」は当時22才。しかし 当時の私は「事件」に全く興味を示さずにいた。
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《「年表・末松太平」1963(昭和38)年。/末松太平=57歳~58歳。私=22歳~23歳。》
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◎1963年2月26日。《末松太平著「私の昭和史」みすず書房》発刊。
・・・本書の著者紹介には 未だ「ベストン(株)勤務」とは記されていない。
★資料★・・・・・・・・・・
《新聞雑誌に掲載された「書評」の数々》
●三島由紀夫/「中央公論」1963年5月号。
●三島由紀夫/「週刊文春」1963年8月14日号。
●今井清一 /「東京新聞」1963年3月13日号。
●尾崎秀樹 /「朝日ジャーナル」1963年5月5日号。
●木村毅 /「読売新聞」1963年3月。
●竹内好 /「みすず」1963何5月号。
●橋川文三 /「みすず」1963年7月号。
●村上方一 /「陸奥新報」1963年。
●
●
★資料★・・・・・・・・・・
《高橋正衛「歴史と人物」/「中央公論」1981年2月号。》
「『私の昭和史』は、二・二六事件に関わった軍人に、学会・思想史研究の分野の、学問的市民権を確立した書であった」
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(末松)
《「年表・末松太平」1962(昭和37)年。/末松太平=56歳~57歳。私=21歳~22歳。》
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◎末松太平「二・二六事件異聞」連載継続中。
●「蹶起の前後(その2)」/「政経新論」1962年2月号(二・二六事件特集号)に掲載。
●「映画『脱出』について」/「政経新論」1962年6月号に掲載。
●「刑場の写真」/「政経新論」1962年8月号に掲載。
・・・この2作品は、1980年《「軍隊と戦後の中で」大和書房刊》に収録。
2023年《「定本 私の昭和史」中央公論新社刊》に再録された。
・・・東映映画「脱出」は、事件当日、首相官邸から岡田啓介首相を脱出させる過程を描いた作品。

◎1962(昭和37)年8月19日。高橋正衛氏は 西田税未亡人の部屋にいた。
・・・この日は「西田税氏の命日」である。1937(昭和12)年のこの日に 北一輝 西田税 村中孝次 磯部浅一の四人が銃殺されている。
★資料★・・・・・・・・・・
《「日本読書新聞」の連載シリーズ「名著の履歴書/編集者による記録集」から》
・・・第102回(昭和43年6月1日)と第103回(6月8日)は「私の昭和史」の履歴書。高橋正衛氏(みすず書房編集部)による記録である。
「西田夫人の部屋の机の上には 雑誌が一冊置かれてあった。私(高橋正衛)が知らない「政経新論」という雑誌である。私は何気なく雑誌に手を伸ばして目次を見た。/目次には『二・二六事件異聞/末松太平』という一行があるではないか。この瞬間《あったー》《本になるか》《どう書いているかな》《末松太平氏が》という感情の断片が、職業意識と混じり合って、喜びが電光の如く私の身体を巡ったのである。/この雑誌が机の上に置かれていたのは偶然である、私が訪ねるからと西田さんが置いたものではない。何気なく置かれて。何気なく手にとった。それが私と末松太平氏との真の出会いであった。末松氏の前半生の記録と 私という編集者が 西田税氏の仏壇の前で交結したのである。西田税氏と末松太平氏との関係を知る人には、ひとつの因縁といえるかもしれぬ」
◎この日 高橋氏は西田夫人から「政経新論」3冊を借りて熟読。数日後に「政経新論社/丸の内の三菱四号館」で 末松太平に「初対面の挨拶」をしている。そして、翌年の2月には「私の昭和史」が出版されている。
◎「私の昭和史」の「まえがき」には「本書の註は、読者の理解の一助として、みすず書房編集部の高橋正衛氏が、附したものである。末松太平」と記されている。
・・・詳細に記された「註」は合計40箇所。「初対面」から「出版」までは僅か半年間。よくぞここまで仕上げたものだ!。高橋正衛氏の力量には感服するしかない。
◎「一冊の本を公刊するという行為は 一編集者の個人的感激のみでなされるべきでない。公的な価値判断の検証、公刊による文化的影響の責任ということが先行する。末松氏に会って後、原稿全部をいただいて、社内の当然の検討・手続きを経て世に出たのである。/『私の昭和史』は重大な意味を持っていた。それが何であるかは、もとより本書を読まれれば理解しうる。またこの本の巻末に附されている『刊行者のあとがき』を読んでいただければ、なお幸いである。この『あとがき』は昭和38年という時点で本書が刊行されるにあたっての思想的配慮をすべきである、という一学者の御忠告により、この学者の多大の協力により書かれたものである」
・・・高橋氏に忠告した「一学者」は「久野収氏」だったようである。
◎第102回と第103回は「西田氏の仏壇の前/『二・二六事件異聞』と出会う」と「わが子に書き残す/青春賭けた運動の鎮魂歌」である。
・・・書き残された「わが子=私」は当時22才。しかし 当時の私は「事件」に全く興味を示さずにいた。
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《「年表・末松太平」1963(昭和38)年。/末松太平=57歳~58歳。私=22歳~23歳。》
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◎1963年2月26日。《末松太平著「私の昭和史」みすず書房》発刊。
・・・本書の著者紹介には 未だ「ベストン(株)勤務」とは記されていない。
★資料★・・・・・・・・・・
《新聞雑誌に掲載された「書評」の数々》
●三島由紀夫/「中央公論」1963年5月号。
●三島由紀夫/「週刊文春」1963年8月14日号。
●今井清一 /「東京新聞」1963年3月13日号。
●尾崎秀樹 /「朝日ジャーナル」1963年5月5日号。
●木村毅 /「読売新聞」1963年3月。
●竹内好 /「みすず」1963何5月号。
●橋川文三 /「みすず」1963年7月号。
●村上方一 /「陸奥新報」1963年。
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★資料★・・・・・・・・・・
《高橋正衛「歴史と人物」/「中央公論」1981年2月号。》
「『私の昭和史』は、二・二六事件に関わった軍人に、学会・思想史研究の分野の、学問的市民権を確立した書であった」
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(末松)