《「年表・末松太平」について》
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《年表作成にあたって、以下のルールを定めた。参考までに記しておく。》
(1)資料だけを駆使して、年表をつくる。
◎ 自宅(父の部屋)にあった既存文書データだけで構成する。
◎ 文書とは、各種の書籍・雑誌・新聞・手紙・日記・である。
◎ 総て無断引用での「私家版」である。
◎ 末松太平の知人友人へのインタビューは、一切行わない。
(2)原則として「私の昭和史」からの直接引用は行わない。
◎ 間接的な引用は避けられない。例えば 松本清張「昭和史発掘」。
これは既に「清張の著作」であり「末松太平の著作」ではない。
その他の書籍類などについても、同様の解釈である。
(3)1993年2月26日までに(第1版を)完成させる。
◎ 末松太平の所有していた資料は膨大で、短期間ではチェックできない。
しかし、ひとまずこの時点で「完成」としておきたい。
(4)網膜剥離手術の前後からは「年表」の表現方法を工夫する。
◎ 対外的な評価が不確定な事項が多く、客観的資料が不足している。
◎ 単なる事項の羅列は「晩年の記録」として不適切だと思われる。
《初版完成/1993年2月24日(水)》
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★「解説」のようなもの★
「年表・末松太平」作成までの経緯を記しておく。
★1993年1月17日午前8時30分 末松太平死去。87歳。
それまでの私は「末松太平の世界」とは無縁だったし むしろ反発さえ覚えていた。
当然「二・二六事件関係」の知識も皆無で「賢崇寺」のことも「慰霊像」のことも全く知らなかった。
「謹呈せがれ殿 おやじ」と署名された「私の昭和史」は所有していたが 内容は理解していなかった。
★そういう私が 突然「喪主」を務めることになったのである。
「慰霊像護持の会の北島です。お花を贈ります」という電話がある。
とりあえず 電話の応対はしているものの 私には何が何だか判らない。
「慰霊像? 護持の会? 何かの慰霊像(仏像)を配布する団体?」
折しも 某宗教団体が配布する「幸福を招く壺」や「幸福を招く像」が世間を騒がしていた。
一瞬「葬儀の混乱を利用して《何かの像》を売りつける?」と警戒したのは 本当の話である。
★末松太平の急死を知って 多数の方が我家を訪れたが 私には「親父との関係」が判らない。
「こちらの《たたみやサン》には いろいろ世話になって・・・」と 末松太平の未亡人が教えてくれる。
「たたみやサン・・・?。末松太平は《畳屋サン》とも親しく交流していたんだ・・・」
たたみやサン=田々宮英太郞氏。これもまた 本当の話である。
★「2月26日には 賢崇寺に行って 皆様に御挨拶したい」と 母が言った。
「二・二六事件の法要」の参列は 母にとっても 私にとっても「初めての体験」になる。
葬儀に参列していただいた方々に 失礼があってはならない。誰が誰だか判らない・・・という訳にはいかない。
「末松太平の世界」を理解する一環として「年表」の作成を思い立った。
★父の部屋にあった「書籍&資料」を全てチェックして「末松太平が登場する部分」をマークする。
マークした「書籍&資料」を時系列に整理しながら「ワープロ」に書き込んでいく。
・・・会社勤務の合間に作業を続け 2月24日に(とりあえず)完成。
この間の《集中力》は 我ながら凄かった・・・と思う。(末松)
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◎追補事項◎
※2023年2月/「年表・末松太平/増補改訂版」に着手。
「初版」作成以後に発見した「遺品資料」を加えて再構成している。